へーつぁんの自由研究日記

うだつのあがらない法曹の日常

TOEIC975点(リス二ング490)のリスニング力

TOEICが出来ても英語ができるとは限らないとはよく聞く。

 

実際そうである。TOEIC満点とかは、本当に通過点に過ぎない。

 

このことをまざまざと突きつけられたのは、この前テレビでみたスポンジボブ。試しに副音声にして聞いてみたところ、マジで言ってるかわからんかった。なんとなくの雰囲気はわかるが、ディクテーションとかは、不可能だろう。

 

これを現地の子供達は楽しんで見ることができるんだから、すごい。たぶん、私の英語力は5歳児くらいなのだろう。いや、それ以外なのか?

 

そういえば、語彙力診断で1万単語とかでも、10歳児程度だったな…

 

ちなみに、誤解がないように言っておくが、フォーマルな英語はそれなりに聞き取れる。ネイティブの普段の会話は不可能だ、ということだ。

訴因変更の可否について自分が理解するところを分かりやすく

【設例】

検察官は,被告人を,「被告人は,平成29年1月1日,〇公園において,被害者が遺失したキャッシュカードを横領した。」との遺失物横領罪で起訴した。これに対して,弁護人は,被告人は,交番に届けるつもりで拾得したもので,横領行為がないと主張した。裁判官は,審理の結果,弁護人の主張を退けることはできないが,被告人は,平成29年1月2日に急に10万円が必要になり,届け出ていなかった被害品のキャッシュカードを使用し,×支店ATMにおいて10万円を引き出そうとしたものの,暗証番号が違ったため,引き出すことができなかった,との心証に達した。この場合,裁判官は,どのような判決をすべきか。

 

【問題の所在】

裁判所は,検察官が設定した訴因については無罪の心証を抱いている。もっとも,裁判官は,被告人が,その2日後,そのキャッシュカードを使用した点は,遺失物横領罪を構成するとの心証を抱いている。この場合,そのまま1月2日の遺失物横領罪で有罪判決をすることができるか(訴因変更の要否)。できない場合,訴因変更をした上で後者の内容で有罪判決を下すことが可能か(訴因変更の可否)。

【訴因変更の要否】

検察官が設定した訴因と異なる事実を認定する場合,一般的に想定される手続としては,訴因変更がある。本件では,被害品の「横領」という構成要件に不可欠な事実につき,訴因と認定事実との間に差異が生じているのであるから,もはや審判対象が同一ではなくなっている。したがって,裁判官は,訴因変更の手続を経なければ,有罪判決を言い渡すことができない。この記事のメインテーマではないので,詳しくは省略する。


【訴因変更の可否】 
本題だが,この事件で訴因変更は可能であろうか。訴因の変更は,「公訴事実の同一性」の範囲でのみ許されるとされるから(刑訴法312条),この「公訴事実の同一性」をどう判断するかが,ここでの問題である。

学生の頃の自分だったら,「公訴事実の同一性は,公訴事実の単一性と公訴事実の狭義の同一性の2つに分けられ,前者は刑法上の罪数を基準に,後者は基本的事実関係の同一性を基準に判断する。基本的事実関係が同一かどうかについては,両訴因が非両立かを考慮する。」なんて論証をしていた。ぶっちゃけ,学生時代は,なんで非両立であれば訴因変更が許されるのか,その内実を今一つ理解しておらず,あてはめでよく苦労した。

しかし,この問題は,難しい言葉を覚えるのではなく,その内実をキチンと理解するところから始めなければならないし,内実をきちんと理解すれば,あてはめで苦労することもない。

公訴事実の同一性の判断基準を考えるに当たっては,それが有する機能に着目してアプローチすることが有用である。すなわち,公訴事実の同一性が認められる場合,一事不再理の効果が生じるとともに,二重起訴禁止の効果が生じるとされる。つまり,公訴事実の同一性は,二重処罰の危険を生じさせる範囲を画する機能を持つ,言い換えれば,1個の刑罰権を発動させることができる範囲を画する機能を持つわけである。

このような理解を前提とすれば,公訴事実の同一性がある場合とは,1個の刑罰権を発動させるべき場合,言い換えれば,二重処罰の危険性が存在する場合に認められる,ということになる。

訴因変更の場面に引き直して平たく言うと,変更前の訴因と変更後の訴因で両方有罪の判決をした場合,1個の刑罰権を行使すべきなのに,これを二重に行使してしまうことになる関係が認められれば,公訴事実の同一性があり,訴因変更が許される,ということになる。誤解をおそれず素人的な言い回しを使うと,二つの訴因について両方別々に有罪判決を出した場合,被告人として,「なんでやねん!」と言えるような場合には,公訴事実の同一性があるということになるわけである。

では,どのような場合に1個の刑罰権を行使すべき場合に,それを二重に行使することになるだろうか。

典型的なのは,従来から公訴事実の単一性と呼ばれる類型である。すなわち,罪数上一罪の関係にある犯罪については,1個の刑罰権の行使しか認められないので,罪数上1罪であれば,公訴事実の同一性は当然認められる。例えば,牽連犯の関係にある住居侵入と窃盗につき,当初住居侵入のみを起訴していたとしても,牽連犯の関係にある窃盗罪に訴因変更することは可能である(住居侵入と窃盗をそれぞれ有罪認定した場合,被告人としては牽連犯の利益を受けることができなくなり,「なんで重く処罰するねん!」と言いたくなる(はず)である。)

もう一つ典型的なのは,実体法上両立しないもので,有名なところだと,窃盗罪と盗品等有償譲渡罪である。この場合,刑法上の理解だと,両方を有罪にすることはできないのに,両方を別々に有罪認定した場合,「実体法上は両立しないのに,なんで両方有罪になるねん」という(正当な)ツッコミが被告人から(きっと)来るであろう。

さらには,ここから難しくなってくるが「事実上」両方の訴因が成り立たない場合にも,「いやいや,両方処罰するのはおかしい」という場合があるであろう。例えば,Aさんから1月1日に1万円を奪ったという事実について,それを12月31日の詐欺として処罰し,かつ,1月1日の恐喝として処罰したとしたら,「奪ったのは1万円なのに,それを詐欺と恐喝で二重に評価するのはおかしくないか?」ということになる。他にも,Aさんを殺すという事態は1度しか生じないから,1月1日にAを殺害したという事実と,たとえその半年後の6月1日にAを殺害したという場合でも,それを両方処罰することは,おかしいだろう。

ここからが学生泣かせの点で,実務を知らない学生にとって,「事実上」両方の訴因が成り立つかどうかをどのようにして判断すればいいのかとても分かりにくい。論文とかには,「検察官の訴追意思」を考慮するとか書いてあるけど,訴因同士を頑張って比較してみても、検察官の訴追意思なんてわからないだろう、というように思う人もいるのではないだろうか。中には,「検察官の訴追意思」というマジックワードを使って,訴訟外の一個の事実を想定している学生もいるのでは(それは訴因自体を比較する考え方とは整合しない),なんて疑ってしまう。
おそらく学生が見落としている最も大きな点は,「訴因変更が問題になる時点では,裁判所は証拠調べをそれなりに終えているし,それまでの訴訟経過も把握している」ことであろう。訴訟指揮をしてきて,手元に関係証拠がありさえすれば,訴因変更の請求がきた場合,変更前の訴因と変更後の訴因を比べて,それが事実上両立するかどうかを判断することは,別に難しくない,というわけである。こういうことを言うと,「証拠調べが終わっていない段階で訴因変更が来たらどうするか」という質問が来そうだが,簡単なことで,判断資料がそろうまで,訴因変更の決定を留保すれば足りるわけである。

そんな感じで,「事実上」両訴因が同時に存在しない場合にも,これを両方とも有罪にしたら,被告人はたまったものではないので,刑罰権を1回行使する場面であり,公訴事実の同一性があり,したがって,訴因変更は許される,ということになる。

そんなこんなで,1個の刑罰権を行使すべき場合はどんな場面があるかを見てきたけど,これが,論証とかで述べられている「公訴事実の単一性と,公訴事実の狭義の同一性」と一致しているわけである。こうしてみると,わざわざ単一性とか狭義の同一性とか言うまでもなく,変更前の訴因と変更後の訴因が刑罰権の行使という観点から両立しないかどうか,という観点から見ていけばいいということになる(と私は思っている。)。まぁ,つまり,訴因変更の可否は,いわゆる「非両立性基準」で判断すべきだ,と思うわけである。

このような理解を前提とすれば,訴因変更の可否のあてはめは,変更前の訴因と変更後の訴因を比べて,その両方を処罰したらおかしい(=法律上又は事実上非両立)ということを言えばよいということがわかり,あてはめの対象もすっきりするはずである。

以上の理解を前提に,訴因変更の可否についてのあてはめをすると,次のような感じだろうか。

「変更後の訴因は,変更前の訴因に記載されているキャッシュカードの占有を開始した被告人が,それを金銭引き出しを試みるために横領したというもので,事実上の共通性があり,変更前の訴因が成り立つ場合,変更後の訴因は不可罰的事後行為として犯罪を構成しない。したがって,変更前の訴因と変更後の訴因は,刑法上両立せず,基本的事実関係は同一であるから,公訴事実の同一性が認められる。」
「基本的事実関係の同一性」というキーワードを入れる必要は必ずしもないとは思うが,そこはまぁ,判例に書いてあるということで。

【まとめ】
以上の次第で,設例に対する答えをざっくりまとめると,「裁判所は,訴因変更をすることなしには有罪判決を書けないので,訴因変更が必要である。訴因変更が可能かが問題となるが,訴因と裁判所の認定しようとする事実は両立せず,したがって,基本的事実関係が同一といえ,公訴事実の同一性がある。よって,裁判官は,検察官に訴因変更を促したうえで,心証に従った判決をすべきである。」,こんな感じかな。

ちなみに,大阪高裁平成29年6月8日判決(公刊物未登載・研修833号参照)とか考えてみると面白いかもしれない。

飲み会

今日は同期の弁護士と飲み会。久しぶりに会った連中で,みんなあまり変わらないなぁという印象。さすがに守秘義務があるのか,担当事件の内容は全然聞けず。もっとざっくばらんに話を聞けるものと期待していたが,そうでもないらしい。

 

ということで,昔の話はできたが,収穫はそんなになかった。そんな感じの一日。

 

つい先日,前向きな自分になれたような気がしていたが,こうした会合をいまいち楽しめない自分に嫌悪感。またすこし気持ちが沈む。

1月4日読売新聞

新聞を読むことはいい。色々な情報を与え、考える機会を持たせてくれる。

 

今年、箱根駅伝を制した青山学院の吉永主将の記事の中で、「全ての面で選手の模範となる」と決意し、行動してきたという。自分も、上に立つものとして、職員の模範になるように行動していきたい。甘えは許されない。

 

また,90歳。何がめでたいの佐藤愛子氏の発言で,「この世に生きることは,自分の思い通りにならないものなのに,そうならないとすぐ怒る」として,保育園の建設に反対する人達を批判するものがあった。そうだよなぁ,と思う。いつかの記事に書いたけど,現代人は,理想が高すぎるように思う。全力で努力しても,満足のいかない結果にしかならないことは山ほどある。そうした現状を,素直に受け入れられるようになりたい。

new year’s resolution

新年の抱負は、英語でnew year’s resolution という(たしか)。一年の始めに、改めて自分が何をしたいのかを意識することによって、充実した日々を過ごすための第一歩とすることは、どこの国でも同じなんだろうか。

 

さて、常々自分が何をしたいのかわからないと言い続けてきましたが、今日,ふと考えた結果,なんだかんだ言って,自分が今まで興味を持ってきたものを継続すべきでは,と思うようになってきた。

 

これまでの自分の人生を振り返ってみると,結局,英語は細々と続けてきたし,修習時代に始めたゴルフもなんだかんだいって続いているわけで,「趣味は?」と聞かれれば,「英語とゴルフ」と答えたこともあったように思う。あとは,ゲームもそこそこやってきたし,たまに麻雀とかもやった。新聞はほぼ毎日読んでいるし,読書も嫌いではなく,月に数冊は読んでいる。それに加え,法律の勉強もなんだかんだ言って好きだ。旅行はそんなに好きかと言われるとよくわからんけど,日帰り旅行とかはよく行っている(人間を成長させるのは,旅と読書と人とのコミュニケーションだ,と誰かが言っていた。)。そういえば,人とのコミュニケーションは別に得意ではないが,英語をやっていれば人とコミュニケーションをとる機会は結構あったりする。

 

こうしてみると,自分は何も持っていないと思って,別の何か,別の何かと何かを追い求めていたが,自分が既に持っているものに目を向けた方がいいのではないかと思えた。

 

かなわない夢の数を数えて,かなえた夢は泣きながらうんぬんかんぬんって,昔どこかの歌手が歌っていた。

 

そういうものなんだろう。そういうわけで,今年の目標は,今持っているものを伸ばしていく,ということにしようと思う。

受精卵無断使用訴訟に対する意見

mainichi.jp

男性側が控訴しましたね。個人的な感覚としては,男性は敗訴するだろうなぁと思います。婚姻中に懐胎した子で,血縁関係までもある以上,受精卵が無断で使用されたとしても,法律上は,親子関係があるとして扱うのは,当然ではないかと思うのです。

 

こうした意見に対しては,やはり,「そうはいっても,子を作ることについての同意もしていないのに,親子関係があると扱われるのは不当だ」という意見もあるところだとは思います。

 

こうした意見の根本にあるのは,「意思に基づく子でなければ親子として扱うべきでない」「親子関係は,親とされる人の意思に基づいていなければならない」という考え方でしょうか。しかし,この考え方には賛同できません。

 

これは,感情論とか,道徳論というよりも,民法という制度上の問題です。

 

民法は,大きく分けて財産法と家族法に分けられます。

財産法における重要なルールは,私的自治の原則や契約自由の原則です。そこでは,契約内容は,国家の干渉を受けずに契約の内容を決めることができたり,自らの意思に基づかない契約には拘束されないといったことを意味します。

他方,家族法は,国家の在り方を決める制度として定められ,その多くは強行法規です。つまり,家族関係は,国家が定めた枠組みの中において法的な効果を認められるということで,そこでは,本人の意思も,法律が定める中で考慮されるにすぎません。例えば,どんなに親子間でいがみ合っていても,親が子に対する扶養義務を免除されるわけではありません。

 

「家族関係に関することであっても,完全に自分で自由に決められる」という理解は,財産法的な理解が前提となっているもので,家族法の制度の建前と整合しないのです。そうした考えは,裁判所には採用されないでしょう。

 

そうはいっても,個人レベルで納得できないという気持ちも当然あるでしょう。こうした訴訟が生じること自体はやむを得ないと思いますが,おそらく裁判所の立場は,そうした人にとっては厳しいものになると思われますし,それはやむをえないと私は思います。

 

もちろん,今回のような訴訟が積み重なるとともに,時代の推移等により,嫡出推定の制度それ自体が不合理で憲法に違反し無効だという話になれば,話は別です。ただ,個人的には,それはまだまだ先の話だと思います。親子関係の安定という要請はやはり重要で,「この子はうちの子じゃない」なんていう争いをいつまでも認めるべきではないと思います。

学者と実務家の違い

論文を読んでいると、学者と実務家の文章は、読んでいてすぐにわかる。実務家の書く文章は、実務上発生する論点についての具体的解決に必要だから議論すると言う目的がはっきりしていることが多いし、読み手にその情報を使ってもらおうとしているからか、正直わかりやすい。読んでいて特段メモを取ることなく、スラスラ読めることが多い。

 

他方、学者の書く文章は、一気に難易度が上がる。これは、抽象度が非常に高く、その思考過程も入り組んでいるためであろうか。今この文章を何のために書いているのか、よく見失う。メモを持って、じっくり読まないとわからない。最終的に時間をかけて読んでも、結局何だったのかわからないこともある。

 

…結局、自分がアホなだけなんですかね。