へーつぁんの自由研究日記

うだつのあがらない法曹の日常

預貯金と遺産分割(最高裁平成28年12月19日大法廷決定)

入手しました,調査官解説。担当調査官は齋藤毅判事(51期)。最近の調査官解説は,一定の方針があるのか分かりませんが,短いものが多い印象を受けていた中,力作の52頁。読むのが大変だ(半分くらいは注だが。)

 

せっかく読んだので感想をば。

 

大法廷決定の事案自体はシンプルであり,単に,預貯金が当事者の合意なく遺産分割の対象となるかが争われた事案であると理解しておけば足りる(と思う。)

 

大法廷決定の内容をざっくり言うと,だいたい次のような感じ。不正確なのは重々承知しているので,正確に知りたい人は原典を参照。

(普通預金債権)

①遺産共有の法的性質ー相続財産の共有は,民法249条以下に規定する「共有」とその性質を異にしない。

②預貯金の性格(実務的・社会的に)―預貯金を遺産分割の対象にすると,公平だし,便利。しかも,預貯金は,現金とそれほど差がないと一般に認識されている。

③預貯金債権の法的性格―預貯金債権は,入出金があるたびに既存の残高が変動するが,結局は同一性を保った1つの債権が存在することになるという特殊性を持つ。

⑤結論―遺産分割においても,口座で預貯金債権が管理されている限り,入出金によりその額が変動するものの,同一性を保った一つの債権が存在する。

(定期預金債権)

上記に加え,定期預金は,預入期間内には払い戻しをしないという条件があるからこそ利率が高い。これは,単なる特約ではなく定期貯金契約の要素である(から,普通預金が当然分割でないなら,なおさら当然分割にはならない。)

 

事件処理上は,「判例変更があり,預貯金債権も遺産分割の対象になるのね」ということさえ知っていれば,さしあたり困ることはないだろう。しかし,今後は,本判決から生じる様々な派生論点を処理する必要性が生じるであろう。そのため,この判決の理論的背景も含めて理解しておくことが,法曹としての教養ではないかと思う。

 

さて,そこで,この決定をもうちょっと掘り下げて理解したいところであるが,この決定を理解する上では,「なぜ預貯金債権は当然分割となっていたのか」を理解しなければならない。出発点は,「可分債権が相続開始と同時に当然に分割される」のはなぜかを理解することであろう。

 

可分債権は相続開始と同時に当然に分割されるのは判例理論であり,その理論的根拠は,だいたい次のようなものだと言われる。すなわち,遺産共有は,民法249条以下に規定する「共有」とその性質を基本的に異にするものではないが,準共有関係については,法令に特別の定めがあるときは共有に関する規定は適用されないところ(民法264条ただし書),分割債権関係を原則とする債権総則の多数当事者間の債権債務関係が,同条ただし書に当たる,だから,その原則に従い,可分債権は準共有関係にならず,分割債権となる,というものである。現実的にも,分割債権にしなければ,他の準共有債権者と共同して債権を行使しなければならないことになるが,では固有必要的共同訴訟になるんですか,債務者が支払不能に陥りそうな場合でも,相続人全員の協力を得て共同で権利行使しないとダメなんですかなど,法律関係を複雑にしたり,相続人に過分な負担を課する場合があると考えられる(可分だけに。)。

 

理論的に争いがあるところであるが,判例の立場には十分な理由があるのではないか,と思う(現実問題としてこれに反した事件処理はできない。)。

 

そうすると,可分債権は相続開始と同時に当然分割されるので,もはや共有状態にはなく,遺産分割の対象にはならないというのが素直な帰結である(ただし,実務上,当事者全員の合意があれば,遺産分割の対象とすることができる。)。

 

さて,以上の検討によれば,「預貯金債権は可分債権であるから,相続開始と同時に当然に分割され,遺産分割の対象とはならない」とする変更前の判例の結論は,簡単に理解することができるように思われる。しかし,物事はそんなに簡単ではない。さっきから使っている「可分債権」が何か,というのは,実は必ずしも明らかではない。単純な金銭債権が可分債権であることはまぁ明らかであるが,究極的には金銭給付を目的としていても,契約上,法令上,様々な内容や性質がくっついている金銭債権は山ほどあるからである。例えば,判例上も,一見すると「可分債権」といってもよさそうな債権が,当然分割とはならないことを前提とするものがいくつか散見されるところである(定額郵便貯金につき最高裁平成22年10月8日判決,投資信託受益権等につき最高裁平成26年2月25日判決,同26年12月12日判決)。

 

つまり,判例理論上,相続開始と同時に当然分割される「可分債権」と,相続開始と同時に当然分割されない「可分債権に当たるように見えてそうではない債権」の2つの類型がある,ということになるようである。理論的にどう考えるのか,個人的にはよく分からないところもあるけど,条文上の根拠を探すとすれば,「債権の目的がその性質上又は当事者の意思表示によって不可分である場合」(民法428条)に該当する場合には,可分債権ではないと言うのはどうだろうか,なんて思った(ただし,誰もこのことを指摘していないので,たぶん,どこか間違っているのだろう。司法試験の頃からそうだが,このことには誰も気づかないだろうと思うことは,大抵間違っている。)。

 

ともかく,理解としては,判例上の「可分債権」と言えるかそうでないかは,事例によって判断されており,単純に金銭の給付を目的としているからと言って「可分債権」になると言えるわけではない,という点は理解しておく必要がある。

その上で,本決定は,先に述べたような普通貯金債権の内容・性質を検討して,預貯金債権が「可分債権」に該当することを否定した,ということになるわけである。決定文にはいろいろと書いてあるが,個人的な理解としては,預貯金債権は,額が変動する一つの債権であり,たしかに,相続開始時点において確定額を算出することは可能だが,それはあくまでその時点の額がたまたまそうだっただけで,その後の入出金により変動が生じうるものなのに,それを確定的に分割してしまうのは,誰の意思にもそぐわないし,その後の入金も当然分割にするなどして,たくさんの債権を生み出させることになるのも,実態にそぐわないから,当然に分割するというのは,預金契約の内容や性質にそぐわない,ということだろうか。この決定には補足意見が付されており,背景事情を知るためには,補足意見も含めて読んでおくことが有用だろう。

 

さて,大法廷決定に付随して,いくつかの検討すべき問題点があるとされる。しかし,記事がだいぶ長くなっているので,今回はここまでにしておこう。

代襲相続が生じた場合の特別受益の行方(福岡高裁平成29年5月18日)

福岡高裁平成29年5月18日(判例時報2346号81頁)の感想

 

遺産分割事件において厄介なのが,代襲相続や再転相続があった場合に特別受益の主張がある場合である。上記裁判例は,この問題を扱うもので,特段目新しい争点に関するものではないが,高裁レベルで一つの見解が提示されたというのは,実務上参考になる。

 

分かりやすいように事案を(かなり)改変して述べると,次のようなものである。

被相続人Aには,子BとCがいた。また,子Bには,子(Aにとっては孫)に当たるDがいた。被相続人は,BとDをたいそう可愛がっており,生前,Bに対して甲土地(1000万円)を,Cに対して株式1000万円を贈与した。しかし,不幸にも,Bは死亡してしまった。Dは,Bを単独相続し,甲土地を取得した。その後,Aが死亡した。Aに見るべき遺産はなく,Cは,Aの遺産分割によっては財産をまったく得られなかった。そこで,Cは,Dに対して遺留分減殺請求権を行使した。

 

要するに,Aには子BCがいて,Bに対する生前贈与が1つ,孫であるDに対する生前贈与が1つあり,その後,代襲相続が発生した,ということである。

 

この場合,論点は次の2点である。

①Bに対する生前贈与は,Dの特別受益として考慮されるか

②Dに対する生前贈与は,Dがその当時推定相続人でなかったにもかかわらず,特別受益として考慮されるか

 

考え方の分岐点としては,相続人間の公平を図るという特別受益の趣旨をどのように考慮するか,という点である。

 

順に検討していこう。

 

【①Bに対する生前贈与は,Dの特別受益として考慮されるか】

通説的(注釈民法とか,司法研究とか)な考えは,これを考慮するとする。すなわち,DはBを相続しており実質的に同一の地位を有するし,Bの利益は実質的にDの利益にもなるのであるから,これを特別受益として考える方が,公平であるというものである。

 

ただ,代襲相続人が被代襲者を通じて贈与によって現実に経済的利益を得ている限度で特別受益に当たるとする折衷説もそれなりの魅力がある(どちらかというと,この見解に賛同したい。)

 

例えば,Bが,死亡前に「やっぱりBDでAの遺産の大半を取得するのは公平でない。親父には悪いけど,甲土地はCに譲ろう」なんて考えて甲土地を,Cに譲ってしまった場合はどうだろうか。この場合,甲土地の贈与をDの特別受益として考慮してしまうと,かえって不公平になる(Cは甲土地の贈与による利益を受けると同時に,甲土地の価格を持ち戻して遺留分減殺による価格弁償を受けることができる可能性がある。)。

それは相続人の意思とは関係ない事後的な事情だとしてこれを無視することも,理屈上はできるけど,相続人間の公平という観点からは,妥当ではないのじゃないか,と思ったりする。実際に事件処理をするときには,形式的に考えるのではなく,結論も踏まえて実質的に考えたいと思うのは,私だけではないはず。

 

【②Dに対する生前贈与は,Dがその当時推定相続人でなかったにもかかわらず,特別受益として考慮されるか】

この論点のポイントは,Dは,生前贈与をうけた時点において,推定相続人ではないという点である(CDのみが推定相続人である。)。Bの死亡によって,推定相続人たる地位を取得した,ということになる。

そして,民法の条文上,「共同相続人中に,被相続人から…贈与を受けた者があるときは」(903条)となっているように,生前贈与を受けた時点で推定相続人でなければならないかについては,解釈の余地が多分にある(相続開始時に推定相続人であれば足りると解釈することも十分可能。)。

 

注釈民法や司法研究では,特別受益として考慮しないという消極説が唱えられているらしい(あれ,司法研究は折衷説じゃなかったか?)。実質的な理由は,Bが生存していればDに対する生前贈与は特別受益として考慮する余地がないのに,Bが死亡したためにDに対する生前贈与を特別受益として考慮することは,Bの死亡という偶然の事情によって結論を左右することになり,相当でない,というものであるように思われる(一応,推定相続人の資格を持たない代襲相続人に対する贈与は,相続分の前渡しとは言えない,とかも言われるけど,中身のある理屈であるとは思えない。)。

 

他方,特別受益は共同相続人間の公平の維持が目的であるという特別受益の趣旨を強調して,受益の時期にかかわらず持ち戻しの対象とすべきだという説も有力だとされている(実務家に大人気の「家庭裁判所における遺産分割・遺留分の実務」(加除出版)では,この積極説が支配的見解であると紹介されており,何となく,今後は積極説が実務を席巻するのではないかという気もする。)。

 

上記福岡高裁は,このいずれの見解もとらず,「その贈与が実質的には被代襲者に対する遺産の前渡しに当たる等の特段の事情がない限り,代襲相続人の特別受益には当たらないというべきである。」とした。位置付けとしては折衷説みたいなものだろうか。

 

個人的には,積極説をとりたい。やはり,偶然の事情とはいえ,相続人になってしまった以上は,特別受益の修正を受けなければならないと考える。特別受益は相続人間の公平を実現するものであるので,その経緯はともかく,相続人になった以上,生前贈与を保持できるというのは,おかしいと思う。事例は異なるが,孫にたくさん生前贈与をしておいて,その後,相続税対策として孫養子をとったような場合,特別受益として考慮しないというのは,おかしいと思う。養子縁組と代襲相続という点で異なるとしても,理屈上は同列に扱うべき問題ではないだろうか。

 

ちなみに,福岡高裁の説示のうち,「また,被相続人が,他の共同相続人の子らにも同様の贈与を行っていた場合には,代襲相続人と他の共同相続人との間で不均衡を生じることにもなりかねない。」という説示には,賛成することができない。「相続人以外」の公平性を考え始めると,特別受益の範囲が広がりすぎるので,相続人間の公平を趣旨とする特別受益の解釈において,相続人以外をふまえた利益衡量はすべきでない,というのがその理由である。

 

実際上,この相続人以外の利益を考え始めるときりがない。実務上,相続人の妻に対する贈与も,相続人の利益として特別受益に当たると考えるべきだという主張はまま見られる。気持ちは分かる。しかし,そんなことまで考慮し始めていたら,きりがないと言わざるを得ない。この点に関する有名な審判例として,福島家裁白川支部昭和55年5月24日審判があるが,この審判例の射程はごくごく狭く解釈すべきだと思う。

 

・・・

 

個人的にはどちらの論点についても通説と言われるものをとらないというマイノリティー路線まっしぐらですが,皆さんはどう考えますでしょうか。

 

ちなみに,私の根本的な価値観としては,「相続人間の公平を実質的に考える」ということで一貫しているつもりです。①の論点では,「実質的経済的利益」まで考えて,②の論点では,「相続人間」の公平を考えるということを重視しているわけです。

 

はてさて,この記事は一体どこに需要があるのやら。

情熱を持つ

この間、灘中学校を目指す小学生のテレビ番組を見た。見事合格を勝ち取っていた。

 

ちょうど、学習塾が出している新聞広告で、灘中学校の算数の入試問題があったから、1時間くらいかんがえてみたところだった。結果は、見事惨敗…もともと、中学校入試をしていないから、勝手がわからないというのもあったが、こんなのを小学校の段階でやるのか、、、と恐れおののいた。

 

もちろん、自分も、訓練さえすれば一定水準のところまでは達成することができるとは思うが、一定水準に達するために必要とされる努力は並大抵のものではないのだろう。

 

学生には、こうした目標にたいする情熱がある。これは私たち大人も忘れてはいけないことだと思う。長く仕事をしていると、こうした目標と目標達成のための最大限の努力という、過去にやってきたことを忘れてしまいそうになることがある。

 

情熱を持って仕事に打ち込む。小学生に教わることだってたくさんある。

 

そこで,ふと,自分が情熱を持てるときはいかなる時であるかを考えてみた。すると,あまり自慢できないが,自分の性格上,人に負けたくないと思ったときに初めて情熱をもって何かに打ち込んでいたと思う。自分が何をしたいか,というよりも,ある一定の集団の中である程度のパフォーマンスを発揮すること,それが自分の原動力であったように思う。だから,これまでの人生では,小中高大院と,多くの集団において大体上位2割くらいにいたような,そんな気がする。自慢ではなく,上位2割に入るために努力を重ねた,ということ。

でも,努力してもできないことはたくさんあった。主に勉強以外は苦手。肝心の就活とか大失敗だったしなぁ。人とのコミュニケーションもあまり得意ではない。

 

それはともかくとして,今自分が何に情熱を注げるかを考えるにあたっては,何に負けたくないのかを考えることが有用かな,とそう思っただけです。

 

それが今の自分にあるかな?相手方代理人に負けない,とか?笑

TOEIC975点(リス二ング490)のリスニング力

TOEICが出来ても英語ができるとは限らないとはよく聞く。

 

実際そうである。TOEIC満点とかは、本当に通過点に過ぎない。

 

このことをまざまざと突きつけられたのは、この前テレビでみたスポンジボブ。試しに副音声にして聞いてみたところ、マジで言ってるかわからんかった。なんとなくの雰囲気はわかるが、ディクテーションとかは、不可能だろう。

 

これを現地の子供達は楽しんで見ることができるんだから、すごい。たぶん、私の英語力は5歳児くらいなのだろう。いや、それ以外なのか?

 

そういえば、語彙力診断で1万単語とかでも、10歳児程度だったな…

 

ちなみに、誤解がないように言っておくが、フォーマルな英語はそれなりに聞き取れる。ネイティブの普段の会話は不可能だ、ということだ。

new year’s resolution

新年の抱負は、英語でnew year’s resolution という(たしか)。一年の始めに、改めて自分が何をしたいのかを意識することによって、充実した日々を過ごすための第一歩とすることは、どこの国でも同じなんだろうか。

 

さて、常々自分が何をしたいのかわからないと言い続けてきましたが、今日,ふと考えた結果,なんだかんだ言って,自分が今まで興味を持ってきたものを継続すべきでは,と思うようになってきた。

 

これまでの自分の人生を振り返ってみると,結局,英語は細々と続けてきたし,修習時代に始めたゴルフもなんだかんだいって続いているわけで,「趣味は?」と聞かれれば,「英語とゴルフ」と答えたこともあったように思う。あとは,ゲームもそこそこやってきたし,たまに麻雀とかもやった。新聞はほぼ毎日読んでいるし,読書も嫌いではなく,月に数冊は読んでいる。それに加え,法律の勉強もなんだかんだ言って好きだ。旅行はそんなに好きかと言われるとよくわからんけど,日帰り旅行とかはよく行っている(人間を成長させるのは,旅と読書と人とのコミュニケーションだ,と誰かが言っていた。)。そういえば,人とのコミュニケーションは別に得意ではないが,英語をやっていれば人とコミュニケーションをとる機会は結構あったりする。

 

こうしてみると,自分は何も持っていないと思って,別の何か,別の何かと何かを追い求めていたが,自分が既に持っているものに目を向けた方がいいのではないかと思えた。

 

かなわない夢の数を数えて,かなえた夢は泣きながらうんぬんかんぬんって,昔どこかの歌手が歌っていた。

 

そういうものなんだろう。そういうわけで,今年の目標は,今持っているものを伸ばしていく,ということにしようと思う。

受精卵無断使用訴訟に対する意見

mainichi.jp

男性側が控訴しましたね。個人的な感覚としては,男性は敗訴するだろうなぁと思います。婚姻中に懐胎した子で,血縁関係までもある以上,受精卵が無断で使用されたとしても,法律上は,親子関係があるとして扱うのは,当然ではないかと思うのです。

 

こうした意見に対しては,やはり,「そうはいっても,子を作ることについての同意もしていないのに,親子関係があると扱われるのは不当だ」という意見もあるところだとは思います。

 

こうした意見の根本にあるのは,「意思に基づく子でなければ親子として扱うべきでない」「親子関係は,親とされる人の意思に基づいていなければならない」という考え方でしょうか。しかし,この考え方には賛同できません。

 

これは,感情論とか,道徳論というよりも,民法という制度上の問題です。

 

民法は,大きく分けて財産法と家族法に分けられます。

財産法における重要なルールは,私的自治の原則や契約自由の原則です。そこでは,契約内容は,国家の干渉を受けずに契約の内容を決めることができたり,自らの意思に基づかない契約には拘束されないといったことを意味します。

他方,家族法は,国家の在り方を決める制度として定められ,その多くは強行法規です。つまり,家族関係は,国家が定めた枠組みの中において法的な効果を認められるということで,そこでは,本人の意思も,法律が定める中で考慮されるにすぎません。例えば,どんなに親子間でいがみ合っていても,親が子に対する扶養義務を免除されるわけではありません。

 

「家族関係に関することであっても,完全に自分で自由に決められる」という理解は,財産法的な理解が前提となっているもので,家族法の制度の建前と整合しないのです。そうした考えは,裁判所には採用されないでしょう。

 

そうはいっても,個人レベルで納得できないという気持ちも当然あるでしょう。こうした訴訟が生じること自体はやむを得ないと思いますが,おそらく裁判所の立場は,そうした人にとっては厳しいものになると思われますし,それはやむをえないと私は思います。

 

もちろん,今回のような訴訟が積み重なるとともに,時代の推移等により,嫡出推定の制度それ自体が不合理で憲法に違反し無効だという話になれば,話は別です。ただ,個人的には,それはまだまだ先の話だと思います。親子関係の安定という要請はやはり重要で,「この子はうちの子じゃない」なんていう争いをいつまでも認めるべきではないと思います。

強制わいせつ罪における性的意図の要否

最高裁平成29年11月29日大法廷判決は、強制わいせつ罪が成立するにあたり、性的意図が必要であるとする最高裁昭和45年1月29日判決を変更し、同罪の成立のためには性的意図は不要であるとした。

ただし、この判例を、「最高裁は、性的意図が必要であるとする解釈を放棄した判例である」と理解することは正確ではない。この点は、判決を読めば明らかである。

昭和45年判例は、被害者の裸の写真を撮って仕返しをしようとする意図のもと、被害者を脅迫し、裸の写真を撮ったという事例につき、強制わいせつ罪は、性欲を刺激興奮させ又は満足させるという性的意図のもとに行われることが必要であるとして、被告人を有罪とした原審を破棄したものである。

今回、大法廷が同判決が維持できないとした理由の骨子は、ごく簡単に言うと、性犯罪においては、被害者の受けた性的な被害の有無やその内容、程度に目を向けるべきであり、現在の社会の認識からすると、性的意図を強制わいせつ罪の要件(つまり、必要な要素)とすることは難しい、というもの。

ただし、大法廷判決は、それに加え、「わいせつ行為」という評価を与えるためには、具体的状況等をも考慮に入れる必要があり(わいせつ行為は、規範的要件である)、その具体的状況においては、性的意図を判断要素として考慮しうる場合もありうるとしている。

結局、この大法廷判決が言っているのは、「強制わいせつ罪において、性的意図は故意とは独立した必須の要件であるとは言えないよ。でも、何がわいせつかどうかは簡単には決まらないのだから、具体的な事情を考慮する必要があるのであって、事例によっては、行為者の意図まで考えてわいせつ行為の認定をする必要がある場合はありますよ。」ということである。

例えばの話、男性が、小学校1年生の女の子の上半身を脱がし、聴診器をあてている状況を考えてみよう。
① 男性は資格を有する医師で、健康診断を実施していた。
② 男性は資格を有する医師を語り、健康診断と称して、女児の裸を見ることに興奮を覚えていた。
外形的な事情は同じであっても、主観的な意図を含めて考えれば、①はわいせつとは言えないけど、②はわいせつであることは明らかであろう。昭和45年判決の意図としては、①のような場面を外したい意図があったのかもしれない。けれども、考え方の筋道としては、①の場面は行為者の主観面を問題とすることなく、わいせつな行為であると評価できない(客観的構成要件の不充足)としてしまう方が、素直な解釈であろう。こういうことを言うと、行為無価値だとか言われるのかな?よく分からんが。

そういう感じ。