へーつぁんの自由研究日記

うだつのあがらない法曹の日常

居酒屋にお客が置き忘れた財布を取った場合、窃盗罪?占有離脱物横領罪?

【事例】
Aらは,深夜,個人Cが経営する小さな居酒屋でお酒を飲んでいた。Aらの隣には,Bらがおり,Bらが先に席を立った。ところが,Bは,自分の席に財布を忘れたまま帰ってしまった。Aらは,そのことに気づき,Bらが帰ってこないかを観察し,Bらが帰ってから5分後,財布をAのカバンに入れ,その後,店を出て財布の中身を山分けした。Aの罪責は。

【検討】
ここでの問題は、要するに,窃盗罪か占有離脱物横領罪かのどちらが成立するか,である。刑法上,これらの区別は,「占有」の有無によってなされる。Bが忘れてしまった財布につき、「占有」が認められれば、占有侵害があったとして窃盗罪(懲役刑は10年以下)になり、Bの占有が失われていれば、占有離脱物横領(懲役刑は1年以下)となる。

そこで、「占有」とは、どのようにして判断されるのであろうか。この点については、一般的な解釈は確立している。すなわち,刑法上の占有は,財物を事実上支配する状態をいい,その存否は,占有の意思とその客観化としての支配の事実を表す諸事情を総合して社会通念により決せられるが,それは財物に対する現実的な実力行使の可能性と排他性の有無という観点からなされるとされる(大コンメンタール刑法第12巻192頁参照)。

この観点から,まず,B自身に「占有」が認められるだろうか。Bは、小さいとはいえ,人が出入りすることができる居酒屋の店内に財布を置き忘れ、すでに5分間もたってしまっている。こうした状況を踏まえると,流石に置き忘れた財布について事実上の支配があるというのは無理がある。Bが財布を「占有」しているということは無理だろう。

であれば、占有離脱物横領になるのであろうか。ところがどっこい、物事はそんなに簡単ではない。ここで検討したいのは、店主であるCの占有が認められるか否かである。例えば、自分の家の中にあるものについては、たとえその存在を認識していなかったとしても、占有が認められると考えられている。これは、友達が家に忘れていった物を、泥棒が奪っていった場合に、占有離脱物横領罪になるという人はいないであろうことからも推察される(どう考えても窃盗罪である。)。

そうした観点から、次の裁判例を見てみよう。旅館のトイレに忘れてあった財布につき,旅館の占有が認められるとした裁判例(大審院大正8年4月4日判決)である。

同裁判例の事例は、被告人は,旅館森田において,宿泊していた小林さんが屋内の便所に置き忘れた財布を領得した、というものであった。大審院はこの事例について、要するに、被告人の領得した財布は,所有者小林さんの事実上の支配を離脱したものであるが,小林さんが宿泊していた旅館の主の森田さんの事実上の支配がある旅館内の便所にあったものであり,この事実をもってすれば,森田さんが小林さんが財布を置き忘れたという事実を知っていたか否かにかかわらず,当然,その財布は,森田さんの支配内に属するものというべきである。従って,遺失物横領として論じるのは間違っている、としたのである。

この裁判例は、家に誰かが置き忘れた場合と同様に、旅館においても、その管理者の占有を認めたのである。

他方,誰かが管理する場所に誰かが物を置き忘れたからといって、当然にそのものについて占有があるわけではない。例えば、村役場事務室内に納税者が遺失した金員につき,役場の看守者である村長の占有を否定した事例(大審院大正10年6月18日判決)や,鉄道列車内に乗客が忘れていった毛布に対する常務鉄道係員の占有を否定した事例(大審院大正15年11月2日判決)がある。

これらの事例における結論の違いはなんであろうか。おそらく、占有の意思とその支配関係の強さが違うものと考えられる。役場や電車の中は人の出入りが激しく、利用者が落としていった物について、いちいち管理していられない(もし誰かに拾われたら、管理体制が悪いとか文句を言われかねない!)。他方、旅館の事例では、その旅館の規模は明らかではないが、おそらく、小規模な旅館だったのではなかろうか。そうすると、あたかも自宅に誰かが物を忘れていった場合のように、占有を取得する意思や、支配関係があったとしてもおかしくはない。他方、旅館の規模が大きかったりした場合には、同じように語ることはできないであろう。

結局、占有の定義に即して、丁寧に考えていく他ない、ということだ。当たり前のことだが。

こうした観点から設例を検討すると、居酒屋という場所では、たとえそれが小さいものであったとしても、お客さんが座る空間にある忘れ物についてまで管理しようという意思はないのが通常であろうし、支配関係も弱いものということになろう。

いずれにせよ、設例の事案においては、Cの占有はないと考えるのが通常であり、Aらの罪責は、占有離脱物横領罪ということになる。

・・・別に取り立てて難しい問題じゃなかったかな?まぁ、いいか。

少年事件における証人尋問を実施すべきかどうかの判断基準と参考事例と雑感と。

少年事件では,刑事事件とは異なり,一件記録がすべて裁判所に提出される。そのため,裁判所は,少年が否認する供述をしていても,一件記録上,非行事実は十分認定できるとして,証人尋問を実施しないまま少年を保護処分に付す,という事態が生じる。

 

実際,少年事件においては,刑事訴訟法のような詳細な証拠調べに関する規定はない。他方,最決昭和58年10月26日は,「非行事実の認定に関する証拠調べの範囲,程度,方法の決定も,家庭裁判所の完全な自由裁量に属するものではなく,少年法及び少年審判規則は,これを家庭裁判所の合理的な裁量に委ねた趣旨と解すべきである。」としており,一定の場合には,家庭裁判所が証人尋問を実施しない場合,法令違反となる余地を認めている。

なんにせよ,少年事件において証人尋問を実施するかは,裁判官の「合理的な裁量」に委ねられているわけである。

 

とはいえ,「合理的な裁量」であればよいから,少年や付添人の求めにもかかわらず証人尋問を実施しなかったとしても,ただちに違法にはならない(東京高裁平成17年8月10日決定や,東京高裁平成27年10月26日決定等)。

 

しかし,保護処分も,少年にとっては前歴として残る不利益処分であるから,基本的には,刑事手続と同じように,少年に対して反対尋問の機会を保障するなどして,手続保障を充実させるべきではないだろうか。

 

そうした中,東京高裁平成27年7月8日決定は,窃盗保護事件において,共犯少年らの証人尋問を実施せずに非行事実を認定した原決定の手続には,決定に影響を及ぼす法令違反があるとして,事件を差し戻した。

 

事案を簡単に紹介しよう。少年Aは,B及びCと共謀して,オートバイ1台を盗んだとして家庭裁判所に送致された。オートバイ窃盗の事案である。少年の言い分は,要するに,オートバイを盗んだのはBとCであり,自分は,BとCがオートバイを盗んだあとたまたま合流したにすぎない,というものである。そして,東京高裁の判断は,ごく大雑把にいうと,客観的な証拠からは少年が事件に関与したかは明らかでなく,結局,共犯者BCの供述の信用性評価が最も重要であるが,BCの供述には変遷があるなどし,これを裏付ける客観的な証拠もないから,証人尋問をせずにBCの調書に信用性を認めるのは,やりすぎだ,というものである。

 

原決定は,おそらく,共犯者が最終的には一致して少年が事件に関与していたことを供述していたことを重視していたのではないかと思われる。実際,調書の内容が一致している場合のインパクトは,結構大きい。しかし,そこは調書は調書。しかも,少年の調書である。調書の作成は,一般に,警察又は検察が事情をまんべんなく聴き,それを最後にまとめて読みきかせるという手段で行われる。しかし,20分も30分も事情を聞かれ,その後,一気に目の前の刑事が「きみの話をまとめるね」とかいって,調書を作り始めるのである。そして,おもむろに調書が印刷され,「間違っていたら指摘してください」などといって,渡される。中には,20頁とかにわたる調書がある。これで,内容を正確に読みつく理解して,間違いがあれば指摘した上で調書にサインできる少年(しかも中学生)がどれだけいるだろうか。東京高裁は指摘してない(できない?)が,やはり中学生くらいの少年の調書の信用性は,慎重に考えるべきで,少年が一貫して否認するような場合であれば,比較的柔軟に事情を聴くべきではないか,と思う。

 

他方,東京高裁平成17年8月10日決定の事案とかを見ると,悩ましくなってしまう。同決定の事案は,7歳や13歳の女の子に対する強制わいせつなどであり,女の子らの証人尋問を実施しなかった原決定の手続に法令違反はないとしている。どうやら,少年は,観護措置段階まで事実を認めていたが,途中で否認に転じたようである。さて,7歳とか13歳の女の子に当時のことを思い出して話してもらうことがいいものだろうか。少年は捜査段階では自白していて,その取調べ担当警察官の尋問もしている。この辺りを考えて,尋問を実施しないとすることも,あり得ないものとはいえないのでは。証人が小さい女の子であろうが,少年に不利益処分を科す以上,萎縮してはならない,柔軟に証人尋問をすべきだ,というのが正論なのかもしれないが(なお、川出教授はこの決定は疑問だとしている。やはり、証人尋問をすべきという方向でけんとうすべきなのだろう。)。

 

裁判官は,「合理的な裁量」を行使しなければならない。ただ,何が合理的かというのは,考えると結構難しいものだ。裁判官の仕事は,やはり重責を伴うのだろう。

なんだかんだ言っているが,裁判例を見ていると,合理的な裁量かどうかは,一件記録を精査して,少年の言い分にかかわらず十分事実を認定できるといえるか,疑いが残かを基準に判断するべきもので,疑いが残る場合には,躊躇せず証人尋問をやる,というのが,あるべき姿なのかな,とは思う。

少年事件における処遇選択の考え方

今回は,少し毛色を変えて少年事件の処遇選択について勉強してみよう。

少年事件の処遇としては,一般的に,審判不開始→不処分→保護観察→少年院送致という順に重くなっていく(検察官送致,児童相談所長等送致,児童自立支援施設等送致もあるが,ここでは省略)。

少年事件については,刑事事件と異なり,検察官の起訴猶予処分が存在せず,事件として立件されたものは,すべて家庭裁判所に送致される(全件送致主義と呼ばれる。)。したがって,どんなに大したことがない事件でも,立件されてしまえば家庭裁判所が事件を扱うことになる(軽い事件としては,単発の万引き,放置自転車の横領,軽犯罪法違反などが考えられる。)。

そのため,審判不開始や不処分で終わる事件は結構多く,例えば,平成27年の統計では,約7割が審判不開始又は不処分で終局している。

この記事では,最も少年が心配するであろう,少年院送致か保護観察処分かを選択するに当たっての着目点について触れたい。 

なお,前提として,少年を少年鑑別所に収容せずに処理する事件(いわゆる在宅事件)で少年院送致は,実務上,まずないと思ってよい。少年院送致という不利益の大きい処分をする際には,家庭裁判所も慎重に判断しているようであり,鑑別所における心身鑑別の結果を踏まえない少年院送致というのは,たぶん存在しないと思われる。

そういうことで,少年院送致か保護観察(試験観察を経ることもある)かが問題となるケースとしては,観護措置(少年法17条)がとられているケースということになろう。

では,裁判所は,どうやって少年院送致か保護観察かを決めているのであろうか。それは,少年の「要保護性」によるとされる。ここにいう「要保護性」とは,①犯罪危険性(要するに再犯可能性),②矯正可能性,③保護相当性を意味すると言われるが,多くの場合,②と③は無視してよい。結局,少年事件の処分は,少年による再犯可能性がどの程度あるか,という点に求められる。

とはいえ,再犯可能性は将来の予測の問題で不確実であるからこれを確実に予測することはできない。ここが少年事件の一番難しいところである。そこで,家庭裁判所では,行動科学の専門的知見を有する家庭裁判所調査官に少年及び家庭等の調査をさせ,処遇に対する意見を提出させている。この調査官の意見は,裁判官も重視しているようで,調査官の意見が通ることが多い(もちろん,最終判断は裁判官がするから,時には違う処分が下るときもあるのだろうが。)。

再犯可能性を判断する際の考慮要素としては様々なものがあるが,一応,次のようなファクターを総合的に判断するものとされるらしい。すなわち,非行事実の態様と回数,原因・動機,共犯事件における地位と役割分担,非行初発年齢,補導歴・非行歴の有無,保護処分歴の有無,心身の状況,知能・性格,反省の有無,保護者の有無及び保護能力,職業の有無・種類や転職回数,学校関係,交友関係,反社会集団との関係の有無,家庭環境,地域環境,行状一般等である(講座少年保護2ー少年法と少年審判279頁以下)。

「そんな要因を並べ立てられても分からんわ!」というのはもっともな意見なので,もう少しざっくりと分類して考えてみよう。

まず,犯行自体の悪質性が重要である。重大な犯罪をしてしまえばしてしまうほど,再犯可能性や,少年が抱える資質的・社会経験的問題性が根深いことが推測されるからである。そのため,犯行態様の悪質性,動機の身勝手さ,結果の重大性,共犯事件において果たした役割等がまずもって検討される。

次に,少年が抱える問題の根深さも検討される(根深さの程度を図るために,前歴は重視される。)。少年鑑別所において,少年が抱える資質的な問題性,成育歴上の問題性等が分析され,なぜこの少年がこのような犯罪に及んでしまったのかという非行メカニズムが検討される。多くは,その結果を踏まえて処遇が決定される。犯罪に及んだ問題性を分析し,それが社会内では矯正することが難しいとなれば,少年院送致という可能性が高くなる。

さらに,少年の環境的要因も考慮される。典型的には,学業関係,職業関係,家族関係の安定さである。もっとも,これは副次的な要因であり,上記の非行の重大さや問題性の根深さほどは重視されない印象がある。

処遇を決めるに当たっては,概ねこの3つの視点から検討され,社会内処遇で改善更生を図ることができるかが検討される。

ここで,「これだけ反省しているのになぜ少年院なんだ」と不満を抱く少年は多いと思われるので,その点について簡単にコメント。

裁判所から求められるのは,単なる「本当に悪かった」という後悔と反省の念ではない。「本当は優しい子なんです」とよく言われるように,少年自身は,根っこにおいては素直で優しいことが多い。そういった少年らが,なぜ非行に及ぶのだろうか。そこを解明し,解決策を打ち立てなければ,裁判所は,「よし,再犯の恐れはないね」と納得はしてくれないだろう。

だから,少年やその家族には,「犯罪をしたことを深く反省していることを当然の前提として,この事件を起こしてしまったのは,自分の生物学的要因,社会学的要因,環境的要因等の様々な要因につきどのような問題があるのかについてしっかりと向き合って認識し,それを改善するには具体的にどのようなことをしなければならないのかを真剣に考え,それを社会内で実行するという決意と環境を整える。」ということまで求められるのである。そこまで言えて初めて,裁判所を説得できると考えた方が良い。

こうした考えに自主的に及ぶ少年はほぼ皆無であるし,考えが及んだとしても,鑑別所に入れられるくらいの事態に陥っている少年が,社会内で上記の改善に及ぶことができると期待することはできない場合がほとんどである。結局,少年としては,できる限りの反省をしているという認識になっているのに,少年院送致と言われ,納得できない,という事態になってしまう(言い方を変えると,少年としては100点の解答を用意したつもりなのに,裁判所としては,それが30点くらいの評価しかできないと受け止める,ということである。)。

裁判所からこうしたかなり高いハードルを求められている以上,鑑別所に入っている1か月の間でどう変わるかは非常に重要であり,これまでとは違うということを,いかに説得力を持って提示できるかが重要なのである。そして,それを少年のみの力で実現することは,ほぼ不可能であり,少年と家族が共同作業をして,全力で非行の原因や改善更生の在り方を考え,審判までに具体的にこういうことをして,在宅処遇になった場合にはこういうことができるということを提示することが,少なくとも必要なのである。形ばかりの反省文とか謝罪文や示談では,はるかに不十分である。

まぁ,グダグダといったけど,どれだけ少年と親が非行について真剣に考えたかが重要で,それを付添人はサポートするし,調査官や裁判官もその点を見ているのでは,と思う。

・・・ 

最後に,刑事事件のノリでやると失敗しますよ,という点を2点ほど。

 ①要保護性を判断するに当たって,非行事実は重要な判断要素ではあるものの,非行事実の重さに必ずしも比例して処遇が決められるものではない。刑事事件では,いわゆる「行為責任」として,犯罪行為を中心に量刑は考えられるが,少年事件はそうではない。あくまで少年という「人」が持つ要保護性を中心に考えるのである。したがって,単に先生を殴ってけがをさせたという傷害事件であっても,場合によっては少年院送致という結論もありえなくはない。安易に保護観察だとかいう楽観的な見通しを持ってはいけない。

②刑事事件では示談が重要であると言われるが,少年事件の場合,示談をするのは大抵親なので,それが少年の犯罪危険性を必ずしも減じるわけではないという点には注意が必要。示談したから少年院は避けられるなんて考えない方が良い。「示談をするような積極的に動く親がいるから,少年の家庭環境は良好だ」「親に示談してもらったことで,少年は改めて見捨てようとしない親の存在に感謝し,心を入れ替えた」とか,犯罪危険性に結び付く,もう一歩理屈が必要だと思われる。

建造物等以外放火における客体の限定の要否

マイナー論点として,刑法110条の客体を限定して,点火材料として用いられるような紙片などを除くべきか,というものがある。

 

110条の客体を限定すべきとする説は,それ自体を焼損することに意味のあるような物に限定すべきだ,などと主張する。これに対しては,焼損することに意味があるかないかの区別は不明確であり,法文上も,「前二条に規定する物以外の物」と,特段の限定を付されてないとして,110条の客体を限定すべきではないという立場もある。

 

一見すると,非限定説の方が妥当なように思われ,なぜ限定説が敢えて対象を限定しようとしているのか,やや分かりにくい。

 

そこで,次のような設例を考えてみよう。

 

甲は,一人で,自宅で酒を飲みながら,友達が家に残していったタバコを勝手に吸っていた。ところが,甲は,酒が回り,タバコの火を消さないまま眠ってしまった。しばらくして,甲は,息苦しくて目が覚めた。甲が目覚めると,吸っていたタバコが床に落ちており,そこから火が上がっていた。甲は,懸命に消火活動をしたが,火の勢いは収まらず,自宅1棟の一部を焼損させてしまった。甲の自宅の隣には木造住宅があり,一歩間違えれば,隣家も焼損してしまうところであった。甲の罪責は。

 

110条の客体を限定しないとする説を前提に,上記の問題を考えみると,おかしなことが起きる(なお,公共の危険の認識については,判例に従い,不要説を前提とする。)。すなわち,まず,甲は,友達がおいていったタバコに火をつけているから,「前二条に規定する物以外の物を焼損」している。そして,甲はその後眠ってしまい,自宅を一部焼損させ,「よって,公共の危険を生じさせ」ている(相当因果関係についても,肯定することができるであろう。)。したがって,甲には,110条1項の建造物等以外放火罪が成立し,甲は,1年以上10年以下の懲役に処せられることになる。

 

さて,上記設例を見たとき,誰もが,「失火罪でしょ」と思うのではないだろうか(ちなみに,失火罪は50万円以下の罰金である。)。上記設例を,建造物等以外放火として処理することは,おかしくないだろうか。

 

だから,上記の論点が出てくるわけである。タバコを吸うために火をつけることによって,普通は公共の危険なんて発生しない。それにもかかわらず,結果として公共の危険が発生したとして,「放火罪」として扱うのは,おかしい。同様に,マッチとか,紙くずとか,薪とか,点火の媒介物やそれ自体を燃やすことに意味がないものは除こうとかいう議論が出てくるわけである。

 

結局,上記設例では,失火罪を問題とするのが自然であり,本条の客体にはおのずから一定の限界があると解するのが相当であろう。地裁レベルではあるが,110条の客体は「それ自体を焼損することに意味のある物をいい,マッチ棒やごく少量の紙片の如く,他の物体に対する点火の媒介物として用いられていて,それ自体を焼損することによっては,一般的定型的に公共の危険の発生が予想されないような物は含まないものと解するのが相当」だとしたものもある(東京地裁昭和40年8月31日判決)。

 

こんな感じで,論点が生じる場合には,必ず前提となる問題意識があるはずなので,論点に対する学説の対立を理解するに当たっては,どういう事例が想定されているのかを合わせて理解するのが良い。

不意を突いた行為による強制わいせつ罪の成否

Aは,通行中の女性Vに対して,Vの不意を突いて突然キスをして逃走した。

 

こんな場合,頭に浮かぶのは,強制わいせつ罪だろう。ところが,刑法上,強制わいせつ罪の条文は,以下のようになっている。

 

「13歳以上の者に対し,暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした者は,6月以上10年以下の懲役に処する」(刑法176条前段)

 

条文にある通り,強制わいせつは,「暴行又は脅迫を用いて」わいせつな行為をすることである。これを読むと,暴行又は脅迫を手段としてわいせつ行為をすることが,構成要件であるように見える。そうすると,突然キスをする行為は,本当に「暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした」という構成要件に該当するのだろうか,という素朴な疑問が出てくる。

 

そう思って調べてみたが,意外と不意にキスをしたことが問題となった判例が見当たらなかった(大コンメンタールに乗っている裁判例は,争点が異なったり,いずれも肩を抱いたりするなど,不意にキスをしたような事案ではなかった)。弁護士ドットコムには関連する質問があったが,金は払いたくない。自分で調べるしかない。

 

そこで検討するに,結局は,暴行行為が同時にわいせつ行為である場合に強制わいせつ罪が成立するかという問題であるので,キスという態様に限らないで調べてみたら,何と大正14年12月1日に出された大審院の判決にまでさかのぼらないとダメだった。最高裁ですらない(ちなみに大コンメンタール刑法第3版第9巻66頁には,大判大14・12・10集4巻743頁とあるが,日付が間違っている。)

 

その判決要旨は,「暴行によるわいせつ罪は暴行自体がわいせつ行為と認めらるる場合においても成立するものとする。」というもの。

 

大審院の認定事実は,被告人が,大正13年6月18日,某歯科医院治療室において某女(当時24歳)に依頼されその虫歯の治療のためプロノコカイン水約半筒を患部に注射し治療室に横にして安静にさせていた際,同女の意思に反して着衣の裾より右手を入れ,その陰部膣内に自己の右人差し指を挿入して暴行を加え,もってわいせつな行為をした,というものであった。

 

当時の弁護人は,私が抱いた上記の疑問と同じように,刑法176条は,暴行又は脅迫を手段としてわいせつ行為をすることを要するのは論を俟たないのに,上記の認定事実では,被告人がわいせつ行為をするに当たって暴行又は脅迫を加え,もって被害者の意思を抑圧してわいせつな行為をしたと認めることはできない,つまり,暴行行為を手段としてわいせつ行為をしたとはいえないから強制わいせつ罪は成立しないと主張した。

 

これに対して大審院は,刑法第176条の暴行とは被害者の身体に対し不法に有形力を加えることをいうと解するべきであり,女性の意思に反し陰部膣内に指を挿入するようなことは,暴行であることはもちろんである。そして,本件のわいせつ行為は,このような暴行行為によって行われたものであるから,暴行行為自体が同時にわいせつ行為と認められる場合であるとは言っても,同条にいう暴行をもってわいせつ行為をしたことに該当することは明らかであり,所論は理由がない,として弁護人の主張を退けた。

 

つまり,大審院は,強制わいせつ罪における暴行を狭く解釈する弁護人の主張を排斥したほか,暴行行為自体が同時にわいせつ行為と認められる場合であっても,強制わいせつ罪が成立するとしたわけである。

 

とはいえ,判例がそう言っているからそうだ,ということはすべきでない。その背景事情について考えてみようと思ったが,とある基本書に当たっても,これが通説で,しかも,不意の強制わいせつの場合には暴行の程度は問題にならないとサラリと書いてあった。

 

結局自分で考えるしかないのか。おそらく,「暴行…を用いて」という文言からは,暴行を手段とすることまで当然読み取ることができない,ということなのだろう。キスをする行為は暴行であり,かつ,わいせつな行為なのだから,素直に,暴行を用いてわいせつな行為をしたといってよいのではないだろうか。

 

さて,それでは,どこから「暴行…を用いて」という文言を,「暴行を手段として」という意味に解釈すべきだという主張がくるのだろうか。おそらく,それは,強姦(177条)や強盗(236条)の解釈に引きずられているということなのだろう。すなわち,これらの犯罪では,暴行又は脅迫が姦淫行為や財物奪取行為それ自体に該当することはありえず,暴行は結果達成のための手段としか用いられようがない。そして,強盗罪や強姦罪,特に強盗罪は,法律家がよく勉強する範囲であるから,無意識的に,暴行は手段として用いられなければならないという意識が生まれてしまったのではないだろうか。ところが,先に述べたとおり,強制わいせつ罪では,暴行自体がわいせつ行為という結果に該当することがあり得るのである。暴行又は脅迫を用いてという条文の文言を手段としてしか考えないという立場は,強姦罪や強盗罪と強制わいせつ罪の違いを無視して,条文を解釈している,ということになるのではないだろうか。

 

そんなこんなで,結局は判例の立場でいいのでは,と思う。不意にキスをしたら,手段としての暴行を用いていなくても,強制わいせつが成立する,と。

なんか刑事系の記事で,わいせつ系の記事を3つくらい書いていることになってしまっている。よくない傾向だ。今度は放火罪でも書こうか。

預貯金と遺産分割(最高裁平成28年12月19日大法廷決定)

入手しました,調査官解説。担当調査官は齋藤毅判事(51期)。最近の調査官解説は,一定の方針があるのか分かりませんが,短いものが多い印象を受けていた中,力作の52頁。読むのが大変だ(半分くらいは注だが。)

 

せっかく読んだので感想をば。

 

大法廷決定の事案自体はシンプルであり,単に,預貯金が当事者の合意なく遺産分割の対象となるかが争われた事案であると理解しておけば足りる(と思う。)

 

大法廷決定の内容をざっくり言うと,だいたい次のような感じ。不正確なのは重々承知しているので,正確に知りたい人は原典を参照。

(普通預金債権)

①遺産共有の法的性質ー相続財産の共有は,民法249条以下に規定する「共有」とその性質を異にしない。

②預貯金の性格(実務的・社会的に)―預貯金を遺産分割の対象にすると,公平だし,便利。しかも,預貯金は,現金とそれほど差がないと一般に認識されている。

③預貯金債権の法的性格―預貯金債権は,入出金があるたびに既存の残高が変動するが,結局は同一性を保った1つの債権が存在することになるという特殊性を持つ。

⑤結論―遺産分割においても,口座で預貯金債権が管理されている限り,入出金によりその額が変動するものの,同一性を保った一つの債権が存在する。

(定期預金債権)

上記に加え,定期預金は,預入期間内には払い戻しをしないという条件があるからこそ利率が高い。これは,単なる特約ではなく定期貯金契約の要素である(から,普通預金が当然分割でないなら,なおさら当然分割にはならない。)

 

事件処理上は,「判例変更があり,預貯金債権も遺産分割の対象になるのね」ということさえ知っていれば,さしあたり困ることはないだろう。しかし,今後は,本判決から生じる様々な派生論点を処理する必要性が生じるであろう。そのため,この判決の理論的背景も含めて理解しておくことが,法曹としての教養ではないかと思う。

 

さて,そこで,この決定をもうちょっと掘り下げて理解したいところであるが,この決定を理解する上では,「なぜ預貯金債権は当然分割となっていたのか」を理解しなければならない。出発点は,「可分債権が相続開始と同時に当然に分割される」のはなぜかを理解することであろう。

 

可分債権は相続開始と同時に当然に分割されるのは判例理論であり,その理論的根拠は,だいたい次のようなものだと言われる。すなわち,遺産共有は,民法249条以下に規定する「共有」とその性質を基本的に異にするものではないが,準共有関係については,法令に特別の定めがあるときは共有に関する規定は適用されないところ(民法264条ただし書),分割債権関係を原則とする債権総則の多数当事者間の債権債務関係が,同条ただし書に当たる,だから,その原則に従い,可分債権は準共有関係にならず,分割債権となる,というものである。現実的にも,分割債権にしなければ,他の準共有債権者と共同して債権を行使しなければならないことになるが,では固有必要的共同訴訟になるんですか,債務者が支払不能に陥りそうな場合でも,相続人全員の協力を得て共同で権利行使しないとダメなんですかなど,法律関係を複雑にしたり,相続人に過分な負担を課する場合があると考えられる(可分だけに。)。

 

理論的に争いがあるところであるが,判例の立場には十分な理由があるのではないか,と思う(現実問題としてこれに反した事件処理はできない。)。

 

そうすると,可分債権は相続開始と同時に当然分割されるので,もはや共有状態にはなく,遺産分割の対象にはならないというのが素直な帰結である(ただし,実務上,当事者全員の合意があれば,遺産分割の対象とすることができる。)。

 

さて,以上の検討によれば,「預貯金債権は可分債権であるから,相続開始と同時に当然に分割され,遺産分割の対象とはならない」とする変更前の判例の結論は,簡単に理解することができるように思われる。しかし,物事はそんなに簡単ではない。さっきから使っている「可分債権」が何か,というのは,実は必ずしも明らかではない。単純な金銭債権が可分債権であることはまぁ明らかであるが,究極的には金銭給付を目的としていても,契約上,法令上,様々な内容や性質がくっついている金銭債権は山ほどあるからである。例えば,判例上も,一見すると「可分債権」といってもよさそうな債権が,当然分割とはならないことを前提とするものがいくつか散見されるところである(定額郵便貯金につき最高裁平成22年10月8日判決,投資信託受益権等につき最高裁平成26年2月25日判決,同26年12月12日判決)。

 

つまり,判例理論上,相続開始と同時に当然分割される「可分債権」と,相続開始と同時に当然分割されない「可分債権に当たるように見えてそうではない債権」の2つの類型がある,ということになるようである。理論的にどう考えるのか,個人的にはよく分からないところもあるけど,条文上の根拠を探すとすれば,「債権の目的がその性質上又は当事者の意思表示によって不可分である場合」(民法428条)に該当する場合には,可分債権ではないと言うのはどうだろうか,なんて思った(ただし,誰もこのことを指摘していないので,たぶん,どこか間違っているのだろう。司法試験の頃からそうだが,このことには誰も気づかないだろうと思うことは,大抵間違っている。)。

 

ともかく,理解としては,判例上の「可分債権」と言えるかそうでないかは,事例によって判断されており,単純に金銭の給付を目的としているからと言って「可分債権」になると言えるわけではない,という点は理解しておく必要がある。

その上で,本決定は,先に述べたような普通貯金債権の内容・性質を検討して,預貯金債権が「可分債権」に該当することを否定した,ということになるわけである。決定文にはいろいろと書いてあるが,個人的な理解としては,預貯金債権は,額が変動する一つの債権であり,たしかに,相続開始時点において確定額を算出することは可能だが,それはあくまでその時点の額がたまたまそうだっただけで,その後の入出金により変動が生じうるものなのに,それを確定的に分割してしまうのは,誰の意思にもそぐわないし,その後の入金も当然分割にするなどして,たくさんの債権を生み出させることになるのも,実態にそぐわないから,当然に分割するというのは,預金契約の内容や性質にそぐわない,ということだろうか。この決定には補足意見が付されており,背景事情を知るためには,補足意見も含めて読んでおくことが有用だろう。

 

さて,大法廷決定に付随して,いくつかの検討すべき問題点があるとされる。しかし,記事がだいぶ長くなっているので,今回はここまでにしておこう。

代襲相続が生じた場合の特別受益の行方(福岡高裁平成29年5月18日)

福岡高裁平成29年5月18日(判例時報2346号81頁)の感想

 

遺産分割事件において厄介なのが,代襲相続や再転相続があった場合に特別受益の主張がある場合である。上記裁判例は,この問題を扱うもので,特段目新しい争点に関するものではないが,高裁レベルで一つの見解が提示されたというのは,実務上参考になる。

 

分かりやすいように事案を(かなり)改変して述べると,次のようなものである。

被相続人Aには,子BとCがいた。また,子Bには,子(Aにとっては孫)に当たるDがいた。被相続人は,BとDをたいそう可愛がっており,生前,Bに対して甲土地(1000万円)を,Cに対して株式1000万円を贈与した。しかし,不幸にも,Bは死亡してしまった。Dは,Bを単独相続し,甲土地を取得した。その後,Aが死亡した。Aに見るべき遺産はなく,Cは,Aの遺産分割によっては財産をまったく得られなかった。そこで,Cは,Dに対して遺留分減殺請求権を行使した。

 

要するに,Aには子BCがいて,Bに対する生前贈与が1つ,孫であるDに対する生前贈与が1つあり,その後,代襲相続が発生した,ということである。

 

この場合,論点は次の2点である。

①Bに対する生前贈与は,Dの特別受益として考慮されるか

②Dに対する生前贈与は,Dがその当時推定相続人でなかったにもかかわらず,特別受益として考慮されるか

 

考え方の分岐点としては,相続人間の公平を図るという特別受益の趣旨をどのように考慮するか,という点である。

 

順に検討していこう。

 

【①Bに対する生前贈与は,Dの特別受益として考慮されるか】

通説的(注釈民法とか,司法研究とか)な考えは,これを考慮するとする。すなわち,DはBを相続しており実質的に同一の地位を有するし,Bの利益は実質的にDの利益にもなるのであるから,これを特別受益として考える方が,公平であるというものである。

 

ただ,代襲相続人が被代襲者を通じて贈与によって現実に経済的利益を得ている限度で特別受益に当たるとする折衷説もそれなりの魅力がある(どちらかというと,この見解に賛同したい。)

 

例えば,Bが,死亡前に「やっぱりBDでAの遺産の大半を取得するのは公平でない。親父には悪いけど,甲土地はCに譲ろう」なんて考えて甲土地を,Cに譲ってしまった場合はどうだろうか。この場合,甲土地の贈与をDの特別受益として考慮してしまうと,かえって不公平になる(Cは甲土地の贈与による利益を受けると同時に,甲土地の価格を持ち戻して遺留分減殺による価格弁償を受けることができる可能性がある。)。

それは相続人の意思とは関係ない事後的な事情だとしてこれを無視することも,理屈上はできるけど,相続人間の公平という観点からは,妥当ではないのじゃないか,と思ったりする。実際に事件処理をするときには,形式的に考えるのではなく,結論も踏まえて実質的に考えたいと思うのは,私だけではないはず。

 

【②Dに対する生前贈与は,Dがその当時推定相続人でなかったにもかかわらず,特別受益として考慮されるか】

この論点のポイントは,Dは,生前贈与をうけた時点において,推定相続人ではないという点である(CDのみが推定相続人である。)。Bの死亡によって,推定相続人たる地位を取得した,ということになる。

そして,民法の条文上,「共同相続人中に,被相続人から…贈与を受けた者があるときは」(903条)となっているように,生前贈与を受けた時点で推定相続人でなければならないかについては,解釈の余地が多分にある(相続開始時に推定相続人であれば足りると解釈することも十分可能。)。

 

注釈民法や司法研究では,特別受益として考慮しないという消極説が唱えられているらしい(あれ,司法研究は折衷説じゃなかったか?)。実質的な理由は,Bが生存していればDに対する生前贈与は特別受益として考慮する余地がないのに,Bが死亡したためにDに対する生前贈与を特別受益として考慮することは,Bの死亡という偶然の事情によって結論を左右することになり,相当でない,というものであるように思われる(一応,推定相続人の資格を持たない代襲相続人に対する贈与は,相続分の前渡しとは言えない,とかも言われるけど,中身のある理屈であるとは思えない。)。

 

他方,特別受益は共同相続人間の公平の維持が目的であるという特別受益の趣旨を強調して,受益の時期にかかわらず持ち戻しの対象とすべきだという説も有力だとされている(実務家に大人気の「家庭裁判所における遺産分割・遺留分の実務」(加除出版)では,この積極説が支配的見解であると紹介されており,何となく,今後は積極説が実務を席巻するのではないかという気もする。)。

 

上記福岡高裁は,このいずれの見解もとらず,「その贈与が実質的には被代襲者に対する遺産の前渡しに当たる等の特段の事情がない限り,代襲相続人の特別受益には当たらないというべきである。」とした。位置付けとしては折衷説みたいなものだろうか。

 

個人的には,積極説をとりたい。やはり,偶然の事情とはいえ,相続人になってしまった以上は,特別受益の修正を受けなければならないと考える。特別受益は相続人間の公平を実現するものであるので,その経緯はともかく,相続人になった以上,生前贈与を保持できるというのは,おかしいと思う。事例は異なるが,孫にたくさん生前贈与をしておいて,その後,相続税対策として孫養子をとったような場合,特別受益として考慮しないというのは,おかしいと思う。養子縁組と代襲相続という点で異なるとしても,理屈上は同列に扱うべき問題ではないだろうか。

 

ちなみに,福岡高裁の説示のうち,「また,被相続人が,他の共同相続人の子らにも同様の贈与を行っていた場合には,代襲相続人と他の共同相続人との間で不均衡を生じることにもなりかねない。」という説示には,賛成することができない。「相続人以外」の公平性を考え始めると,特別受益の範囲が広がりすぎるので,相続人間の公平を趣旨とする特別受益の解釈において,相続人以外をふまえた利益衡量はすべきでない,というのがその理由である。

 

実際上,この相続人以外の利益を考え始めるときりがない。実務上,相続人の妻に対する贈与も,相続人の利益として特別受益に当たると考えるべきだという主張はまま見られる。気持ちは分かる。しかし,そんなことまで考慮し始めていたら,きりがないと言わざるを得ない。この点に関する有名な審判例として,福島家裁白川支部昭和55年5月24日審判があるが,この審判例の射程はごくごく狭く解釈すべきだと思う。

 

・・・

 

個人的にはどちらの論点についても通説と言われるものをとらないというマイノリティー路線まっしぐらですが,皆さんはどう考えますでしょうか。

 

ちなみに,私の根本的な価値観としては,「相続人間の公平を実質的に考える」ということで一貫しているつもりです。①の論点では,「実質的経済的利益」まで考えて,②の論点では,「相続人間」の公平を考えるということを重視しているわけです。

 

はてさて,この記事は一体どこに需要があるのやら。