へーつぁんの自由研究日記

うだつのあがらない法曹の日常

ポピュリズムの台頭

米国で中間選挙の結果がいよいよ明らかになろうとしている。最近の世界情勢をみていると、ポピュリズムが台頭してきたと感じる。ドイツでは難民排斥を掲げる政党が勢力を伸ばしているし、トランプ大統領も、移民排斥を訴えたり、メディアを執拗に攻撃し、いわば人間の「素朴な感覚」に訴えるような方策を取っている。

 

こうした潮流には警戒が必要だ。本来、民主主義は、多様な価値観を有する者が、多様な意見を交わし、その議論の結果、さまざまな価値観の中での調和を見出し、合理的な選択をするための制度ではなかったか。単純な声の大きさに惑わされることなく、多様な価値観に目を向けることが重要で、そのためには、ある意味、少数のエリートは重要な存在であった。

 

これまでは、経済成長という結果が伴っていたため、ある意味、少数のエリートが運営する政治体制に対しての不満は息を潜めていた。しかし、経済が成熟し、一種の停滞感が生まれてきた現代において、不満を募らせる人が増えてきた(特に、インターネットの発達によって、「となりの芝」に接する機会が増えている)。そして、そこに、大衆が声をあげられる環境が整備された(SNSなど)。結果として、多くの人が不全感を抱き、多くの人が、不満感を声にしている。結果、支持を得たい政治家は、その不満に同調するメッセージを発信する。

 

そのようなポピュリズムにおいて深刻な問題なのは、政治家が情動的な行動に走ることだ。一定のビジョンがあるわけではなく、「大衆はどう考えるか」「どうすれば大衆の支持を得られるか」というものが、行動指針になってしまう。そのような行動指針が不安定であり、時に暴走する危険性があることは、歴史が証明しているはずだ。

 

人間は本能に従って行動すると、衝突してしまう危険性がある。理性をもって、「平和」を目指すべきだ。その「理性」がポピュリズムには備わっているか。「大衆が、深く考えることなく、直感的な意見を述べ、政治家は、その意見に従って行動する。」そこに、多様な価値観に配慮した合理的な思考はあるか。それは、「民主主義」が目指した姿なのか。

 

今回のアメリカ中間選挙の結果は、見逃すことができない。