へーつぁんの自由研究日記

うだつのあがらない法曹の日常

アメリカのホームレスは主張が強かった

アメリカ人は自分の考え,気持ちを表すのが好き(というか習慣)なように思う。

 

それはホームレスも例外ではなかった。

 

ある日,ニューヨークの地下鉄で切符を買おうとしていたら,後ろから急に黒人に話しかけられた。切符の買い方に別に困っていたわけではなかったが,親切に切符の買い方を教えてくれる(というか,一方的に説明する)。説明し終わったら,「ところで,私はホームレスなのだが,援助してくれないだろうか」と言ってくる。「助けられないよ」というと,「なんだよ,親切に切符の買い方を教えてやったのに」,ときたもんだ。仕方がないから,小銭を渡してその場を乗り切ろうと思って,75セントくらいをあげた。そうしたら,「これだけかよ。これじゃあパンも変えないよ」,と。そう来るか。ちょうど財布の中には,20ドル札しかなく,「財布の中には,20ドル札しかないんだ」というと,「じゃあ20ドルくれよ。」マジか...当然「それだけのことをしてもらった覚えはない。嫌だ」と答える。すると,何を言っているのかはよく分からなかったが,罵倒された。いったい何だったんだ...

 

別のある日,車を運転して町の小さな小売店に買い物に行った。すると,その駐車場に,見るからにホームレスのおばさんがいて,食べ物を恵んてくれないかと言われた。なぜかその時は少しかわいそうに思い,小売店で,ミルクフランスパン的なものを買った。それをおばさんに持っていったときの最初の一言が「肉は入っていないの?肉無しのパンなんて食べられないよ…」…仕方がないので,自分で食べました。ちなみに,そのおばさんからは,私が駐車場から出ようとしたときに車によってきて「5ドルくれないかい?そうしたらパンを買えるんだけど」と話しかけられた。そうくるのか…

 

自分の気持ちを共有することは大事だなぁと思ったことは,昨日ブログに書いたけど,日本人的には,そこまでのことはなかなかできないなぁと思う。

感想ー誰とでも15分以上会話が途切れない話し方

英会話カフェで全然話がうまく展開できなかったから購入したのが,「誰とでも15分以上会話が途切れない話し方」。この手の本は,眉唾もので,とりあえず何か少しでも役に立てばいいや,と思い購入した。つまり,全然期待していなかった。

 

ところが,読んでみると,自分がいかに当たり前のことに気づいていないかを思い知らされた。これは,(僕にとっては)とても良い本だった。

 

何が良かったかというと,会話は,「言葉」ではなく「気持ち」をキャッチボールするものだ,という点。

 

例えば,「今日は寒いですね」という言葉でも,寒いという情報を交換しているのではなく,「寒い」という感覚を相手と共有するという気持ちで話すということ。

 

愚痴を聞いてもらうというのがあるけど,あれは,別に何か解決策を求めているのではなく(もちろんそういう場合もあるが),単に,自分の気持ちを分かってほしいという気持ちから,愚痴を話したいだけ。だから,解決策を一生懸命考えるのではなく,「ふんふん,それはひどいね」と相手の気持ちに共感してあげるだけで,相手は解決方法を提示されるよりも,かえってすっきりすることがある。

 

学生の頃から,相手との会話が凄い苦手だった。いつも,話題がないなぁと思っていた。でも,そうではなくて,相手はどういう気持ちを持っているのだろう,自分の気持ちを分かってほしい,という気持ちさえあれば,どんな小さな事でも,話題になるはず。

 

そう思って人と接すると,意外とうまくいくことに,この年になって気づいた。無意識にやっていたところはもちろんあるけど,こうして言語化して理解したのは,この年になって初めてのこと。

 

いやー,いい勉強になった。

着衣の上からおしりを触った場合,強制わいせつか,条例違反か

わいせつの定義は,一般に,「徒に性欲を興奮または刺激せしめ,且つ,普通人の正常な性的羞恥心を害し,善良な性的道徳観念に反する」行為をいうものとされている。

 

この度,強制わいせつに主観的な意図が必要かという点についての判例変更があったことは有名なことだが,ここでは,着衣の上からお尻を触ることが「わいせつ」行為に該当するか,という点について少し触れる。

 

これを否定した裁判例としては,着衣の上からでん部を手でなでた行為につきわいせつ行為とは言えないとした福島簡易裁判所昭和33年1月18日判決がある。ほかにも,公園で遊ぶ10歳の女の子の手を引っ張り,背後から抱きついた上,背中,腰部,でん部を撫でまわしたという事例につき,わいせつ性を否定した名古屋地裁昭和48年9月28日判決がある。

 

他方,名古屋高等裁判所平成15年6月2日判決は,住居に侵入して21歳及び14歳の被害女性をトイレ内に閉じ込め,自己の身体を女性に密着させて,女性のでん部を手のひらで撫でまわした行為につき,着衣の上からであってもわいせつな行為であると認定している。

 

結局,良くある話だが,「わいせつ」か否かは,当該事件の具体的事実から見ていくしかないわけで,「着衣の上からかどうか」が唯一の基準であるわけではないということだろう。

 

お尻をさわる前後の言動,態様の執拗さ,被害者の着衣当を総合的に考慮して,わいせつ性を認定する,ということになるわけである。

  

服の上からだとせいぜい迷惑防止条例違反だから大したことではないだろうと考えている人がいるとすれば,浅はかというほかない(もちろん,迷惑防止条例違反も被害者に多大な精神的被害を与える重大犯罪ですよ!)

日々の経験の蓄積

先日,ジュンク堂で「裁判官,当職はそこが知りたかったのです」とかいう本を立ち読みした。少し興味があったので。内容は,裁判官と弁護士の対談みたいなところで,普段触れることができない裁判所の事情を岡口さんがコメントするという感じ。読んだ印象では,裁判所の内部について,問題ない範囲で明らかにしているなぁという感じ。特別な作為は感じず,率直なところが書いてあるという印象。

 

それはともかく,その本の中で要件事実マニュアルを執筆するのにどれくらい時間がかかったのかという中村弁護士の質問に対して,岡口さんはゼロと答えていた点が印象的だった。曰く,日々読んだりしたものをメモしたりして蓄積してきただけで,特別な執筆活動はしていないとのこと。

 

日々の事件処理で,知識を集約しないといけないなぁとずっと思っているのだが,なかなかどうしてこれが難しい。その中で,あれほどの中身のあるものをまとめるんだから,岡口さんの能力はすごいなぁ,と素直に思う。素行はともかくとして。

 

Onenoteを使っていろいろとまとめているけど,うまくまとまらない。長い期間仕事をすることになるのだから,何かしらの形を少しずつでも作っていきたい,という意気込みだけが残る。

 

あぁ,やっぱり自分はうだつが上がらない。

質問事項を作る

仕事上、関係者に対して質問を直接投げかけることが多い。しかもそれは、失敗の許されない一発勝負だから参ったものだ。

 

そこで、質問事項を作るときの注意点をば。

答えが予想できる事項については、まず答えから書き、それからその答えを考えること。うまい質問というのは、答えやすい質問で、答えやすい質問というのは、想定される答えが分かる質問で、想定される答えが分かる質問というのは、答えを意識した質問ってこと。質問者が何を聞きたいかではなく、相手にこう答えさせるためにはどう書けばいいかを考える。そのために、まず、答えから書く。

答えが予想できない事項については、そもそも質問すべきかを考えなければならない。仮にせざるを得ないときは、できるだけ相手をコントロールすることを意識する。相手に自由に話させるのではなく、想定した答えに誘導するように聞く。もし想定された答えが出ないときは、問い詰める材料があるとき以外は潔く引く。

 

とか言いつつ、このあいだの自分の質問はひどかった…

 

 

英語を勉強することの副次的効果

英語を勉強していて特に感じるのは,英語を勉強していると,自分の意見を言わなければならないことが本当に多いこと。TOEFLとかもそうだけど,自分の意見を述べることが積極的に求められる。アメリカ人と話していても,自分の感情や考えを聞かれることがとても多い。どう思った?どう考える?なんて質問はしょっちゅうだ。この間も,「ニュージェネレーション」と呼ばれる世代について,どう思うんだ?とか聞かれた。

 

日本人は,こうした議論をあまり好き好んでしない。けど,いろんな論点について「自分はどう考えるのか」ということを考えると,一気に興味の幅が広がるし,考えの幅が広がる。何か自分の意見を持たないといけないとき,人は,その根拠を探しに走る。何か意見を言わないといけないという意識が,人を知識の集約に駆り立てる。

 

英語を勉強することで,そうした積極的な姿勢も学んだと思う。

 

 

議論をすること

仕事上,議論をすることは避けられないし,避けるつもりもない。ところで,最近は,民事訴訟では口頭主義の形骸化が唱えられているらしい。実質的な争点整理がなされていない,ともいう。

さもありなん,というのが率直な感想かな。大きな問題としては,争点整理の理想像が,裁判所と当事者との間で共有されていないのでは,というのがあるように思う。ゴールが定まらないのに,それに向かった努力は望めないだろう。

共通言語である要件事実を基本に据えた上で,争点を中心にした議論をし,設定した争点についても,主要事実レベルだけでなく間接事実レベルまで掘り下げた議論をする,こうした点を当事者が理解した上で簡にして要を得た書面を提出し,裁判官は求釈明をするなどして口頭議論をリードし,議論を通じて当事者との理解を共通化し,その結果を調書に残す。

おそらく,エッセンスをまとめるとこんな感じだろうか。

 

頭で何となくわかっていても,なかなかうまくできないのは仕方がない。当事者としては,裁判所のリードに任せきりにならず,議論がかみ合っていないと思えば,積極的に裁判官に議論を吹っかけていいと思うし,裁判官としては,書面だけで分からないところは恥ずかしがらずに当事者に聞けばいいと思う。そういった,何でも話すことができる雰囲気が当たり前になってくれば,変わっていくのだろうか。

公開法廷でやりにくいとしても,弁論準備くらいではもっと話してもいいと思う。

 

書いていて思ったが,偉そうなこと書いてんな 笑

いいんだ,黙ってるよりは。きっと。