へーつぁんの自由研究日記

うだつのあがらない法曹の日常

法の支配とは

法学を学ぶ人、そうでない人も含め、「法の支配」という言葉を聞いたことがある人は多いだろう。

みんな大好きWikipediaによれば、「法の支配(ほうのしはい、英語: rule of law)は、専断的な国家権力の支配を排し、権力を法で拘束するという英米法系の基本的原理である。」というそうである。憲法の学習においては、このような文脈で法の支配を学んだと記憶している。

 

しかし、最近、法の支配の概念は、異なった文脈で用いられることの方が多いなぁと感じることがある。例えば、国連の2030年までに達成すべき目標として掲げる持続可能な開発目標(SDGs)のターゲット16.3において、法の支配を国家及び国際的なレベルで促進し、すべての人々に司法への平等なアクセスを提供することを謳っている(これもWikipediaより)。

 

つまり、権力で法を拘束するという国家レベルでの法の支配という考え方とは別に、「すべての人々に(正しい)司法への平等なアクセスを提供する」という、市民レベルの文脈でも「法の支配」という言葉が用いられることがある。つまり、「正しい」憲法、「正しい」法律があっても、それが適切に運用され、市民レベルにまで浸透しなければ、法の支配が実現したとは言えない、というのである。

 

法律があるのに、それがきちんと運用されないなんてあるのか、と思う人もいるかもしれないが、それは、視野が狭いと思われる。例えば、東南アジア諸国では、司法汚職の存在が否定できない。また、裁判で勝訴しても、その判決を執行することが著しく困難であり、結局、「権利の実現プロセス」という民事訴訟の大原則が実現しない国もある。

 

法の支配が実現したと言えるためには、①「正しい」ルールの存在、②そのルールの周知だけでなく、③そのルールに従った運用まで必要であると思われる。

 

ちょっと言葉では説明しにくいけど、発展途上国における法律活動・経済活動に少し関わってもらえれば、上記の点が痛感されるのではないかと思う。