へーつぁんの自由研究日記

うだつのあがらない法曹の日常

new year’s resolution

新年の抱負は、英語でnew year’s resolution という(たしか)。一年の始めに、改めて自分が何をしたいのかを意識することによって、充実した日々を過ごすための第一歩とすることは、どこの国でも同じなんだろうか。

 

さて、常々自分が何をしたいのかわからないと言い続けてきましたが、今日,ふと考えた結果,なんだかんだ言って,自分が今まで興味を持ってきたものを継続すべきでは,と思うようになってきた。

 

これまでの自分の人生を振り返ってみると,結局,英語は細々と続けてきたし,修習時代に始めたゴルフもなんだかんだいって続いているわけで,「趣味は?」と聞かれれば,「英語とゴルフ」と答えたこともあったように思う。あとは,ゲームもそこそこやってきたし,たまに麻雀とかもやった。新聞はほぼ毎日読んでいるし,読書も嫌いではなく,月に数冊は読んでいる。それに加え,法律の勉強もなんだかんだ言って好きだ。旅行はそんなに好きかと言われるとよくわからんけど,日帰り旅行とかはよく行っている(人間を成長させるのは,旅と読書と人とのコミュニケーションだ,と誰かが言っていた。)。そういえば,人とのコミュニケーションは別に得意ではないが,英語をやっていれば人とコミュニケーションをとる機会は結構あったりする。

 

こうしてみると,自分は何も持っていないと思って,別の何か,別の何かと何かを追い求めていたが,自分が既に持っているものに目を向けた方がいいのではないかと思えた。

 

かなわない夢の数を数えて,かなえた夢は泣きながらうんぬんかんぬんって,昔どこかの歌手が歌っていた。

 

そういうものなんだろう。そういうわけで,今年の目標は,今持っているものを伸ばしていく,ということにしようと思う。

受精卵無断使用訴訟に対する意見

mainichi.jp

男性側が控訴しましたね。個人的な感覚としては,男性は敗訴するだろうなぁと思います。婚姻中に懐胎した子で,血縁関係までもある以上,受精卵が無断で使用されたとしても,法律上は,親子関係があるとして扱うのは,当然ではないかと思うのです。

 

こうした意見に対しては,やはり,「そうはいっても,子を作ることについての同意もしていないのに,親子関係があると扱われるのは不当だ」という意見もあるところだとは思います。

 

こうした意見の根本にあるのは,「意思に基づく子でなければ親子として扱うべきでない」「親子関係は,親とされる人の意思に基づいていなければならない」という考え方でしょうか。しかし,この考え方には賛同できません。

 

これは,感情論とか,道徳論というよりも,民法という制度上の問題です。

 

民法は,大きく分けて財産法と家族法に分けられます。

財産法における重要なルールは,私的自治の原則や契約自由の原則です。そこでは,契約内容は,国家の干渉を受けずに契約の内容を決めることができたり,自らの意思に基づかない契約には拘束されないといったことを意味します。

他方,家族法は,国家の在り方を決める制度として定められ,その多くは強行法規です。つまり,家族関係は,国家が定めた枠組みの中において法的な効果を認められるということで,そこでは,本人の意思も,法律が定める中で考慮されるにすぎません。例えば,どんなに親子間でいがみ合っていても,親が子に対する扶養義務を免除されるわけではありません。

 

「家族関係に関することであっても,完全に自分で自由に決められる」という理解は,財産法的な理解が前提となっているもので,家族法の制度の建前と整合しないのです。そうした考えは,裁判所には採用されないでしょう。

 

そうはいっても,個人レベルで納得できないという気持ちも当然あるでしょう。こうした訴訟が生じること自体はやむを得ないと思いますが,おそらく裁判所の立場は,そうした人にとっては厳しいものになると思われますし,それはやむをえないと私は思います。

 

もちろん,今回のような訴訟が積み重なるとともに,時代の推移等により,嫡出推定の制度それ自体が不合理で憲法に違反し無効だという話になれば,話は別です。ただ,個人的には,それはまだまだ先の話だと思います。親子関係の安定という要請はやはり重要で,「この子はうちの子じゃない」なんていう争いをいつまでも認めるべきではないと思います。

強制わいせつ罪における性的意図の要否

最高裁平成29年11月29日大法廷判決は、強制わいせつ罪が成立するにあたり、性的意図が必要であるとする最高裁昭和45年1月29日判決を変更し、同罪の成立のためには性的意図は不要であるとした。

ただし、この判例を、「最高裁は、性的意図が必要であるとする解釈を放棄した判例である」と理解することは正確ではない。この点は、判決を読めば明らかである。

昭和45年判例は、被害者の裸の写真を撮って仕返しをしようとする意図のもと、被害者を脅迫し、裸の写真を撮ったという事例につき、強制わいせつ罪は、性欲を刺激興奮させ又は満足させるという性的意図のもとに行われることが必要であるとして、被告人を有罪とした原審を破棄したものである。

今回、大法廷が同判決が維持できないとした理由の骨子は、ごく簡単に言うと、性犯罪においては、被害者の受けた性的な被害の有無やその内容、程度に目を向けるべきであり、現在の社会の認識からすると、性的意図を強制わいせつ罪の要件(つまり、必要な要素)とすることは難しい、というもの。

ただし、大法廷判決は、それに加え、「わいせつ行為」という評価を与えるためには、具体的状況等をも考慮に入れる必要があり(わいせつ行為は、規範的要件である)、その具体的状況においては、性的意図を判断要素として考慮しうる場合もありうるとしている。

結局、この大法廷判決が言っているのは、「強制わいせつ罪において、性的意図は故意とは独立した必須の要件であるとは言えないよ。でも、何がわいせつかどうかは簡単には決まらないのだから、具体的な事情を考慮する必要があるのであって、事例によっては、行為者の意図まで考えてわいせつ行為の認定をする必要がある場合はありますよ。」ということである。

例えばの話、男性が、小学校1年生の女の子の上半身を脱がし、聴診器をあてている状況を考えてみよう。
① 男性は資格を有する医師で、健康診断を実施していた。
② 男性は資格を有する医師を語り、健康診断と称して、女児の裸を見ることに興奮を覚えていた。
外形的な事情は同じであっても、主観的な意図を含めて考えれば、①はわいせつとは言えないけど、②はわいせつであることは明らかであろう。昭和45年判決の意図としては、①のような場面を外したい意図があったのかもしれない。けれども、考え方の筋道としては、①の場面は行為者の主観面を問題とすることなく、わいせつな行為であると評価できない(客観的構成要件の不充足)としてしまう方が、素直な解釈であろう。こういうことを言うと、行為無価値だとか言われるのかな?よく分からんが。

そういう感じ。

成長をすることの大変さ

ここのところ、家に帰ったらスプラトゥーン2をするのが日課になっている。動画とかを見ていると、Sプラスが当たり前のような雰囲気だけど、実際やってみると、Aに行くのもだいぶ大変。Sプラスなるには数百時間必要なんだろう、おそらく。

 

情報伝達手段の発達により、今の世の中は成功体験で溢れすぎていて、あたかも自分もある程度やればその一員になれると勘違いしている人が多いのではないだろうか。手を伸ばせば届く距離にあるものでは飽き足らず、その先を、その先を求め続けてはいないだろうか。

 

今一度、成功というのは、日々のほんの少しづつの努力を長い間積み重ねた結果の産物であることを思い起こしたい。漫画みたいに、仲間がやられて気持ちが爆発して一気に逆転なんてことは、現実世界ではほとんどない。多くは、気持ちを高めたところで、惨めに散って行くだけだ。

被相続人に家をタダで貸した場合,寄与分が認められるのか

1 はじめに

遺産分割の事件では,寄与分が主張されることとがままある。一般に,寄与分には,①家業従事型,②金銭等出資型,③扶養型,④療養看護型,⑤財産管理型があるとされる。

 

この記事では,そのうち,「兄が,身寄りのない弟(借家住まい)のために特別に土地建物を1000万円で購入し(賃料相当額は月額5万円とする),そこに弟を無償で10年間住まわせてあげた場合に,弟の遺産分割(遺産は預貯金が700万円のみ)に当たって兄に寄与分が認められるのか,認められるとしてその額はいくらか。なお,相続人は,兄弟姉妹合計4人であった。」という非常にニッチな事例を検討したい。

 

兄としては,「弟は賃料相当分600万円浮いたんだから,600万円の寄与分がある」といいたいところだろう。このような主張は認められるのであろうか。

 

2 寄与分の要件

寄与分が認められるための要件は,次の2つである(民法904条の2参照)

①被相続人の身分関係に基づいて通常期待される程度を超える特別の寄与であること

②寄与行為の結果として被相続人の財産を維持又は増加させたこと

 

3 兄弟間の扶養義務

上記の「特別の寄与」を考えるに当たっては,兄弟姉妹は,互いに扶養をする義務があることを考慮しなければならない(民法877条1項)。仮に家を買って住まわせることが,「身分関係に基づいて通常期待される程度」であれば,寄与分は認められないからである。

 

扶養義務の区別として有力に主張されてきたのが,生活保持義務と生活扶助義務という分類である。前者は,自己と同程度の水準まで扶養する義務であり,後者は,自己に余力があれば援助すべき義務であるとされる。前者は,夫婦関係における扶助義務と,親の子に対する扶助義務であり,後者は,ざっくり言って,それ以外の扶助義務である。兄弟間の扶養義務は,生活扶助義務に当たる。

 

4 寄与分の有無についての雑駁な感想

余力があれば援助すべき義務の中に,土地建物を買ってあげることも含まれるというのは,ちょっと無理な話ではなかろうか。そうすると,「特別の寄与」があったと言ってよさそうである。もともと借家住まいの弟にとってしてみれば,家賃相当分を浮かせることができたのであるから,おそらく,財産の維持又は増加があったと言ってよさそうである。

 

そうすると,この事件では,一定額の寄与分を認めるのが相当だ,ということにはなりそうである。では,いくらの寄与分を認めるべきであろうか。民法上は,「寄与の時期,方法及び程度,相続財産の額その他一切の事情を考慮して定める」としか書いておらず,実際の適用は,家庭裁判所の合理的な裁量に委ねられているところである。

 

裁判所の裁量がどのように行使されるかは分からないが,予想してみると,一応,金銭等出資型の類型では,「相続開始時の賃料相当額×使用期間×裁量割合」という式が提示されている。兄の法定相続分が25%であるから,裁量割合として75%を考え,「5万円×120か月×0.75=450万円」となるのか。しかし,そうすると,遺産のうちの結構な額を持って行ってしまうことになる。これでよいのだろうか。例えば,弟に25年間住まわせていたら,土地建物を準備してあげたことだけで,遺産の全部を持っていくことになるが,それでいいのだろうか。

この点は,おそらく,居住期間が10年間という点がポイントではなかろうかと思う。すなわち,残された遺産は預貯金であり,10年間家賃が浮いたからと言って,それが全部貯金に回っているはずがないと思われる。そうすると,「寄与の時期」を考慮して,裁量割合をもっと下げていいのではないかと思われる(寄与分は,遺産の維持又は増加に対する貢献をみるものなので,遺産の維持の度合いがおもったより高くなければ,裁量割合を低くしてもいいと思う。)。5割くらいになるのではないだろうか。そうすると,300万円の寄与となり,落ち着きどころとしては悪くない。

 

アメリカのホームレスは主張が強かった

アメリカ人は自分の考え,気持ちを表すのが好き(というか習慣)なように思う。

 

それはホームレスも例外ではなかった。

 

ある日,ニューヨークの地下鉄で切符を買おうとしていたら,後ろから急に黒人に話しかけられた。切符の買い方に別に困っていたわけではなかったが,親切に切符の買い方を教えてくれる(というか,一方的に説明する)。説明し終わったら,「ところで,私はホームレスなのだが,援助してくれないだろうか」と言ってくる。「助けられないよ」というと,「なんだよ,親切に切符の買い方を教えてやったのに」,ときたもんだ。仕方がないから,小銭を渡してその場を乗り切ろうと思って,75セントくらいをあげた。そうしたら,「これだけかよ。これじゃあパンも変えないよ」,と。そう来るか。ちょうど財布の中には,20ドル札しかなく,「財布の中には,20ドル札しかないんだ」というと,「じゃあ20ドルくれよ。」マジか...当然「それだけのことをしてもらった覚えはない。嫌だ」と答える。すると,何を言っているのかはよく分からなかったが,罵倒された。いったい何だったんだ...

 

別のある日,車を運転して町の小さな小売店に買い物に行った。すると,その駐車場に,見るからにホームレスのおばさんがいて,食べ物を恵んてくれないかと言われた。なぜかその時は少しかわいそうに思い,小売店で,ミルクフランスパン的なものを買った。それをおばさんに持っていったときの最初の一言が「肉は入っていないの?肉無しのパンなんて食べられないよ…」…仕方がないので,自分で食べました。ちなみに,そのおばさんからは,私が駐車場から出ようとしたときに車によってきて「5ドルくれないかい?そうしたらパンを買えるんだけど」と話しかけられた。そうくるのか…

 

自分の気持ちを共有することは大事だなぁと思ったことは,昨日ブログに書いたけど,日本人的には,そこまでのことはなかなかできないなぁと思う。

感想ー誰とでも15分以上会話が途切れない話し方

英会話カフェで全然話がうまく展開できなかったから購入したのが,「誰とでも15分以上会話が途切れない話し方」。この手の本は,眉唾もので,とりあえず何か少しでも役に立てばいいや,と思い購入した。つまり,全然期待していなかった。

 

ところが,読んでみると,自分がいかに当たり前のことに気づいていないかを思い知らされた。これは,(僕にとっては)とても良い本だった。

 

何が良かったかというと,会話は,「言葉」ではなく「気持ち」をキャッチボールするものだ,という点。

 

例えば,「今日は寒いですね」という言葉でも,寒いという情報を交換しているのではなく,「寒い」という感覚を相手と共有するという気持ちで話すということ。

 

愚痴を聞いてもらうというのがあるけど,あれは,別に何か解決策を求めているのではなく(もちろんそういう場合もあるが),単に,自分の気持ちを分かってほしいという気持ちから,愚痴を話したいだけ。だから,解決策を一生懸命考えるのではなく,「ふんふん,それはひどいね」と相手の気持ちに共感してあげるだけで,相手は解決方法を提示されるよりも,かえってすっきりすることがある。

 

学生の頃から,相手との会話が凄い苦手だった。いつも,話題がないなぁと思っていた。でも,そうではなくて,相手はどういう気持ちを持っているのだろう,自分の気持ちを分かってほしい,という気持ちさえあれば,どんな小さな事でも,話題になるはず。

 

そう思って人と接すると,意外とうまくいくことに,この年になって気づいた。無意識にやっていたところはもちろんあるけど,こうして言語化して理解したのは,この年になって初めてのこと。

 

いやー,いい勉強になった。