へーつぁんの自由研究日記

うだつのあがらない法曹の日常

当事者の確定ー氏名冒用訴訟ー

今回は,ちょっとした夏休みの自由研究ということで、氏名冒用訴訟についてみていこう。

通常,民事訴訟では,当事者が誰になるかが問題になることはほとんどないため,氏名冒用訴訟は限界事例であるが,考え方を理解しておくことは重要である。

 

氏名冒用訴訟を理解する際のコツは,できるだけ具体的な事例に基づいて考えることである。単に「氏名冒用訴訟」というのではなく,実際にどのような訴訟になり,どのような紛争が生じ,その紛争がどう解決されるべきかまで含めてきちんと理解しておくと,知識が定着し,また,応用も効く。

 

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【事例】

Xは,Pと共謀して,Yが所有している土地甲の所有権を手に入れたいと考えた。そこで,Xは,Yを被告として甲土地の所有権移転登記手続請求訴訟を提起した。Xは,Yの関与を排除するため,訴状記載のYの住所をPのものとした。そのため,訴状はPに送達され,裁判所は,第1回口頭弁論期日をした。Pは第1回口頭弁論期日において出席し,Xの請求原因を全て認めた。そのため,裁判所は,Xを勝訴させる判決を出し,その判決はPに送達され,判決は確定した。

Yは,ある日,土地甲の所有者名義がXとなっていることに気づいた。そこで,Yは,Xに対して所有権の移転登記の抹消を求める訴訟を提起した。Xは,訴訟において,Yの請求は前訴の既判力に抵触するとして,直ちに棄却を求めた。裁判所は,どう判断すべきか。

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氏名冒用訴訟をどう処理するかは,いわゆる民事訴訟における当事者をどう確定するかという問題に関連している。周知のとおり,当事者の確定の基準には,意思説,行動説,表示説のほか,規範分類説などがある(その他にも適格説,併用説,紛争主体特定責任説などがあるらしい。)

 

これらのうち,意思説(訴訟当事者が誰を当事者としようとしたかによって判断する)や行動説(当事者らしく行動した者を訴訟当事者とする)はあまり支持がない。

通説は、表示説(訴状の表示において特定された者が当事者とする。ただし、訴状の記載に誤記がある場合もあるので、請求原因等も含めて訴状の被告の表示を実質的に検討する必要はある。)であり,どの立場に立つにせよ,まずは表示説の立場からきちんと事例を処理することができることが必須であろう。

 

実際問題,表示説は,基準として極めて明確かつ客観的であり,優れている。裁判所としても,訴状を受け取った際に「この訴状の記載に関わらず真実の当事者を認定しなければならない」などといちいち認定しないといけないとなると,やってられないであろう。

 

表示説の立場からすると,【事例】はひとまずシンプルに解決することができる。

すなわち,訴訟当事者は,Xが原告,Yが被告である。訴状にそのように表示されているからである。そして,結果的にYは敗訴しているのであるから,XのYに対する判決は,一応は有効に成立しており,甲土地の登記がXに移転されたことは,一応は有効である。したがって,YがXに対して所有権移転登記の抹消を求めたとしても,その訴訟は既判力に抵触するから,棄却すべきことになる(既判力については勉強されたい。)。

もちろん,この結論は,Yにとってあり得ないであろう。自分が全くあずかり知らないところ敗訴し,それに対して文句が言えないというのはおかしい。しかし,そのための方法は,別訴ではなく,確定した判決に誤りがあった場合の救済制度,すなわち再審によるべきである。再審をするためには再審事由が必要であるが,Yは,自らが当事者となる訴訟について,有効な授権がないPによって訴訟追行されているのであるから,Pに対して訴訟追行をするのに必要な授権がないという再審事由がある(民訴法338条1項3号)。

このように,訴訟当事者,判決当事者はいずれもXとYとした上で,再審によって救済を図る,という処理をすることになるわけである。

 

まずはここまでをきちんと理解しておくことが重要である。

 

なお,訴訟係属中に氏名冒用訴訟であることが疑われた場合はどうするか,という問題があるが,これまたシンプルで,当事者はXとYであることには変わりがなく、Pに訴訟追行をするために必要な授権があったかが疑われること尽きるのであるから,その観点から職権調査をすることになる。もしPに必要な授権がないことが判明したら,これまでのYに対する訴訟行為は全て効力を持たないのであるから,訴状の送達からやり直すことになる。

 

このように,表示説は,シンプルに事件処理をすることができる点で優れている。

 

なお,死者名義訴訟も同様で,訴状の表示から判断するから,死者に対する訴訟が確定したとしても,判決の名宛人たる当事者が存在しないから,判決はそもそも無効である(応用編として,東京高判昭和45年1月20日をどう考えるか,という問題はある。)

 

【蛇足】

この記事を書こうと思ったきっかけは,法学教室2020年5月号の林教授の民事訴訟法の記事を読んでのことだったわけだが,その記事では,規範分類説による検討がされている。有力説ということだろう。(はじめその点に気づかず,混乱してしまった。)。

 

規範分類説は,プロスペクティブな観点とレトロスペクティブな観点を分けて検討する立場である。すなわち,今後手続を進めるにあたって誰を当事者とするべきかという場面では表示説を採用し,既に終了した手続において誰が当事者であったかを検討する場面では,紛争解決に適するもので,かつ,手続の結果を適用されても仕方がない程度に手続に関与する機会を与えられていた者を当事者とする説である。

 

先ほどの表示説の処理だと,Yとしては,何の落ち度もないのに敗訴判決が一応は有効に成立していることになるが,この結論が気持ち悪いという感覚は理解できる。規範分類説は,事後的に,その判決の効力をYに及ぼすことができるかという観点から,当事者を特定していく考え方であって,上記の【事例】だと,Pが始終Yとして行動しているのだから,判決の効力を及ぼすべきはPなのであって,訴訟当事者は,レトロスペクティブな観点からは,XとPであると考える。そうすると,【事例】では,Yは,Xに対して抹消登記手続きを求めることができることになり,感覚的にも妥当な処理であるように思われる(表示説の処理は,やや形式的な印象を受ける)。

 

そうした観点から,規範分類説に魅力を感じなくもないが,プロスペクティブな観点とレトロスペクティブな観点を分けて当事者概念を検討するというのは,当事者概念が一貫しない印象をうける。学問的には興味深いが,当事者を実質的に検討していくと、手続きや判決の効力の範囲が曖昧になるおそれを生じさせることになる。例えば、判決が確定しても、「その判決には私には効力がない」という主張を、再審等の手続によることなく許容することになるが、執行手続等も含めた事件処理の観点からは,より客観的で明確な,表示説の方を支持したい。