へーつぁんの自由研究日記

うだつのあがらない法曹の日常

弁論準備手続あれこれ

【はじめに】

民事訴訟と言えば、多数の傍聴人がかたずをのんで見守る中、公開の法廷に裁判官と当事者が集まって、事件について、口頭でアツい議論を進める…なんていうイメージを持っている人はさすがに多くはないかもしれない。

そこまではいかずとも、民事訴訟では公開の法廷で黒服をきた裁判官と、スーツで決めた弁護士がいろいろやっているんだろうな、と思う人はいるかもしれない。

ところが、実際には、一つの事件で裁判官が公開の法廷に現れる回数は、多くの事件で、そう多いものではない。実際には、第1回口頭弁論期日は公開の法廷で行われるものの、その場で、裁判長が「本件は、弁論準備手続に付したいと思いますが、よろしいですか」とおもむろに聞き(民訴法168条で当事者の意見を聞くことになっている。)、双方当事者が、「はい、結構です。」と答え、次回からは非公開の弁論準備手続で争点や証拠の整理が行われる(裁判所のイチ会議室で行われるもので、裁判所によっては結構狭い部屋で行われることもある。)。次に裁判長が公開の法廷に現れるのは、証人尋問期日か、あるいは、判決言い渡しの時なのである。
(※なお、行政事件など、公開法廷で実施することが相当であるものについては、弁論準備手続を用いず、公開法廷で争点と証拠の整理が行われることもある。)

今回は、この弁論準備手続(以下、実務家っぽく「弁準」という。)について少し整理してみたい(誰得かは知らんが。)

 

【弁準の目的】

弁準の目的について、民訴法168条は、次のとおり述べている。

「裁判所は、争点及び証拠の整理を行うため必要があると認めるときは、当事者の意見を聴いて、事件を弁論準備手続に付することができる。」

つまり、弁準は、「争点及び証拠の整理を行う」ための手続である。

 

【弁準の期日】

次に、弁準の期日だが、先ほども述べたように、公開法廷で行うものではない。民訴法169条は、次のように述べる。

1項「弁論準備手続は、当事者双方が立ち会うことができる期日において行う。
2項「裁判所は、相当と認める者の傍聴を許すことができる。ただし、当事者が申し出た者については、手続を行うのに支障を生ずるおそれがあると認める場合を除き、その傍聴を許さなければならない。」

つまり、弁準には、当事者は立ち会うことが予定されているが、傍聴人については、当事者の申出があった場合に裁量的に認めるのみであって、一般公開はされていない、ということになる。争点や証拠の整理は、自由な議論によってより効果的になるものである、という考えのもと、弁準の傍聴者を絞っているということかと思われる(もっとも、弁準が本来の立法趣旨から離れて、書面交換の場になってしまっているという批判もある。)。

 

【弁準の登場人物】

基本的には弁準には事件を担当する裁判官と、当事者(+代理人)が出頭する。ただし、裁判官についていうと、民訴法171条1項は「裁判所は、受命裁判官に弁論準備手続を行わせることができる。」としてあり、合議事件などでは、3人の裁判官全員が出席するのではなく、例えば左陪席だけ、あるいは、右陪席を抜いた裁判長+左陪席のみが出席する、ということもある。

 

【電話会議】

弁準は、電話会議によってすることもできる。すなわち、民訴法171条3項は、「裁判所は、当事者が遠隔の地に居住しているときその他相当と認めるときは、当事者の意見を聴いて、最高裁判所規則で定めるところにより、裁判所及び当事者双方が音声の送受信により同時に通話をすることができる方法によって、弁論準備手続の期日における手続を行うことができる。ただし、当事者の一方がその期日に出頭した場合に限る。」としている。なお、ただし書があるせいで、当事者のどちらかは裁判所に来なくてはならないので、全員がウェブ会議システムを使って弁準をやる、ということはできない(この点、書面による準備手続が活用されているようであるが、民訴法を変えたほうが良いと思うな。)。

 

【弁準の中身】

弁準は、比較的インフォーマルな手続きであり、主張と証拠を整理するという目的の下で、各裁判官がそれぞれの手法で実施しているのが実態である。

主張の整理に関しては、やはり、準備書面の提出が中心となる。すなわち、民訴法170条1項は、「裁判所は、当事者に準備書面を提出させることができる。」としており、事前に提出された準備書面に基づき、主張内容についての確認がされる。

証拠の整理に関しては、民訴法171条2項が、「裁判所は、弁論準備手続の期日において、証拠の申出に関する裁判その他の口頭弁論の期日外においてすることができる裁判及び文書(第二百三十一条に規定する物件を含む。)の証拠調べをすることができる。」としている。したがって、弁準では、文書の証拠調べ(原本を当事者に提出させて、裁判官がこれを閲読すること)や、必要な証拠決定をすることができる。

まぁ、要するに、訴訟で争いがある点はどこかを確認して、その争いがある点をどうやって立証するのかを整理していく手続、ということになる。

 

【蛇足~受命裁判官ができることとできないこと】

マニアックな話になるが、受命裁判官が弁準を担当する際には、できることとできないことがある。この辺りは、170条及び171条をパズルのように読み解いて考えていくしかないが、結論的には、次のとおりである。

①調査嘱託の決定、鑑定嘱託の決定、送付嘱託の決定、証拠書類の証拠決定ができる(民訴法171条3項)

②証拠書類の取調べができる(民訴法171条2項、170条2項)

③口頭弁論の分離・併合ができる(民訴法171条2項、170条5項、152条1項)

④時期に後れた攻撃防御方法の却下ができる(民訴法171条2項、170条5項、157条)

⑤釈明、釈明処分ができる(民訴法171条2項、170条5項、149条1項、151条)

 

【弁準の終了】

以上の権限を行使し、議論を重ね、争点と証拠の整理ができれば、弁準の終了時に、っその後の証拠調べによって証明すべき事実を確認し、それを調書に記載することとされている(民訴法170条5項、165条1項)。

 

・・・

 

以上のような手続が終了すれば、証拠調べ(典型的には証人尋問)のために、第2回口頭弁論期日が指定される。なので、民事訴訟における大まかな流れは、

第1回口頭弁論期日 → 弁準(複数回が通常) → 第2回口頭弁論期日(証人尋問) → 第3回口頭弁論期日(最終弁論) → 判決言渡し

という流れが実は多い。

 

・・・この記事はいったい誰に需要があるのだろうか。

令和2年予備試験論文民事訴訟法をざっくり検討してみました

 

突然だが,予備試験ってどんなものなんだろう?と思ったので,予備試験の解説を勝手にやってみることにした。今回は,令和2年予備試験の民事訴訟法を検討していく。執筆時点では出題の趣旨がまだ出されていないので,以下の記載は私見に基づき勝手な意見を述べるものであるので,注意願いたい。出題趣旨や採点実感が公開された後は,そちらを参考にした方が良いかもしれない。

 

1 雑感

 

令和2年予備試験の民事訴訟法は,債務不存在確認訴訟,一部請求訴訟における既判力の範囲を問う問題(第1問)と,その後に後遺症があることが判明した場合の処理を問う問題(第2問)である。試験問題の内容は,法務省のHPを参照してほしい。

リンク:http://www.moj.go.jp/content/001330820.pdf

 

雑感としては,予備試験は,問題文こそ短いものの,法律問題の本質を理解した上での応用力が求められる試験であり,非常に難しい試験だと感じた。新司法試験との違いは,試験問題のボリュームくらいであり,問われる法的思考力の程度には,ほぼ遜色ないのではと思う。予備試験合格者の新司法試験合格率が高いのもうなずける。私自身,ロースクールを卒業したが,正直,この試験に合格できる同級生は,かなり限られていたのでは,と感じた。怖い怖い。

 

2 設問1についての検討

 ⑴ 債務不存在確認訴訟とは

 債務不存在確認訴訟は,債務者が,債権者に対して,自己が債務を負っていないことを確認することを求める訴訟である。今回の事例のように,交通事故があった際に,自分には過失がないと主張する側が,自己が相手方に債務を負っていないことを確認することを求める,というのは,典型的な例の一つである。他にも,貸金債権の存否に争いがある場合に,債務者側が債権者側に対して,貸金債権は存在しないことの確認を求めて訴訟を提起する,という例もある。

 

 ⑵ 確認の利益と設問1の問題点

 債務不存在確認訴訟では,まず,確認訴訟である以上,いわゆる確認の利益があるかという点を検討する必要がある。いわゆる対象選択の適否(過去や将来の権利義務関係の確認,単なる事実関係の確認を排斥),方法選択の適否(給付訴訟が提起できる場合の確認訴訟の排斥),即時確定の利益(権利関係を即時に確定する実益の存在),というヤツである。

 設問1との関係では,Yから反訴を提起されたことによって,債務不存在確認訴訟の確認の利益が失われるのではないかという疑問にどう応えるかという点はおそらく検討することが求められる項目であろう。(ちなみに,Yが本件事故により頭痛の症状が生じ,現在も治療中であると主張して争っている点から,即時確定の利益が否定されないか,ということも,若干気になったけど,たぶん述べる必要はないであろう。。)

 

 ⑶ Yが反訴した点

 Yが給付訴訟を反訴提起している点から思い浮かべなければならないのは,最判平成16年3月25日であろう。すなわち,同判決は,生命保険会社が,ある会社の代表取締役が死亡したのは,生命保険金を取得する目的で自殺したものであるとして,保険金の受取人に対して債務不存在確認訴訟を提起したのに対して,保険金の受取人が,反訴として,生命保険金の支払請求訴訟を提起したという事案である。最高裁は,「…保険金支払債務の不存在確認請求に係る訴えについては,…保険金等の支払を求める反訴が提起されている以上,もはや確認の利益を認めることはできないから,…不適法として却下を免れないというべきである。」とした。同一の訴訟物に対して確認訴訟と給付訴訟が並列している場合に,確認訴訟を維持する意味はない(給付訴訟の判断をすることこそが,紛争の抜本的解決につながる。),というわけである。そうすると,本件でも,反訴として給付訴訟が提起されている以上,本訴については確認の利益がなく,訴え却下になるのではないか,とも思われる。

 しかし,物事はそう単純ではない。ポイントは,反訴は一部請求である,という点である。先ほどの最高裁判例は,本訴たる確認訴訟と,反訴たる給付訴訟の訴訟物が同一である事例において,確認訴訟と給付訴訟を並列させる意味がないから,訴えの利益がないと判断したものと理解できる。他方,本件は,本訴が本件事故に基づく債務が全部存在しないとして確認訴訟を提起しているのに対し,反訴は,本件事故に基づく損害賠償債権のうち,一部のみを請求する,としているわけである。この場合,本訴と反訴の訴訟物は,完全に同一であるということができるであろうか。ここでの前提となる知識が,債務不存在確認訴訟における訴訟物に関する理解と,一部訴訟における訴訟物に関する理解である。

 まず,債務不存在確認訴訟における訴訟物であるが,これは,確認の対象となる権利義務となる。債務不存在確認訴訟では,債務者側が原告になるが,審理の対象となるのは,債権者が給付訴訟を提起した場合のそれと同一である。本件でXは,「XのYに対する本件事故による損害賠償債務が存在しないことの確認」を求めているため,訴訟物は,「YのXに対する本件事故による不法行為による損害賠償請求権」ということになる。

 次に,反訴請求を見てみよう。Yは,本件事故による損害賠償請求の一部請求として,「500万円及びこれに対する本件事故日以降の遅延損害金の支払」を請求しているのであるから,いわゆる明示的一部請求訴訟である。この場合の訴訟物については議論があるところであるが,判例の立場によれば,1個の債権の数量的な一部である旨明示されている場合,訴訟物は明示された一部のみであるとされる(最判昭和34年2月20日参照)。したがって,反訴請求の訴訟物は,「本件事故による損害賠償請求権のうち,500万円の範囲のみ」ということになる。

 そうすると,本件において,本訴と反訴では,訴訟物は500万円の限度では重なり合っているが,それ以上の部分については重なりはないことになる(本訴は全部請求であり,反訴は一部請求である。)。そうすると,上記最判平成16年3月25日があるからといっておいそれと直ちに却下することはできない,ということになろう(少なくとも,反訴で訴訟物となっていない部分については,確認訴訟と給付訴訟は並列していないので,訴えの利益がなくなる根拠がないわけである。)。

 

 ⑷ 本問の処理

 以上の理解を前提として,本件でどのような判決をするべきであろうか。まぁ,いろいろな考え方があるとは思うが,個人的にはシンプルに考えればよいのではないかと思う。すなわち,Yが反訴を提起した500万円部分については,同一の訴訟物について確認訴訟と給付訴訟が提起されているので,Xによる債務不存在確認訴訟の確認の利益が事後的に消滅することになり,訴えは却下されるべきということになる。他方,500万円を超える部分については,債務の不存在が確認されているので,この部分は,Xの請求を認容することになろう。反訴請求は理由がないので棄却することは明らかである。

 そうすると,本件における主文は,

 1 本件本訴中,XがYに対して本件事故に係る不法行為に基づく損害賠償債務が存在しないことを求める部分のうち,500万円以下の部分について訴えを却下する。

 2 本件本訴中,XがYに対して本件事故に係る不法行為に基づく損害賠償債務が,500万円を超えて存在しないことを確認する。

 3 本件反訴請求を棄却する。

という感じになるのではないかと思う(主文の書き方は知らないので,雰囲気だけね。)。

 

 ⑸ 本訴についての判決の既判力

 設問1では,本訴についての判決の既判力についても問われている。上記主文に従えば,Y→Xの不法行為による損害賠償請求権のうち,500万円以下の部分の確認を求めることについて確認の利益がないことについて既判力が生じることになる(なお,訴訟要件の存否をめぐる争いを封じる必要性はがあることから,訴訟判決についても既判力が生じると考えるべきであろう。)。また,XがYに対して,本件事故による不法行為による損害賠償債務が,500万円を超えて存在しないことについても既判力が生じていることになる。

 

 ⑹ 蛇足

 なお,中には,設問2の内容を先回りして,設問1で,既判力の範囲は頭痛に関する治療費用の支出と通院に伴う慰謝料だけであることを明示するべきだ,と主張する人がいるかもしれないが,そんな複雑なことをここでする必要はないだろう。設問2の聞き方も,Yの立場から述べるように求めているので,別に設問1と設問2の立場が矛盾してもよいことを前提としているので,設問2を慮って設問1で自爆するのはやめたほうが良い。答案が複雑になるだけであるし,実務でも後訴もないのに不法行為でいちいち損害項目ごとに訴訟物を特定するなんてやってない。それに,主文書けなくない?という気もする(「本訴請求中,XのYに対する本件事故による不法行為による損害賠償債務について頭痛基づく治療費用の支出及び通院に伴う慰謝料部分を求める訴えのうち,500万円以下の部分についての訴えを却下する。」とかいう主文はナンセンスだと思うが。別に止めはしないけど。)。

 

3 設問2についての検討

 ⑴ 前提知識

 民事訴訟では,事実審の口頭弁論終結日を基準日として既判力が生じる。不法行為による損害賠償請求訴訟では,たとえ事実審の口頭弁論終結日以降に新たに損害があることが分かったとしても,それはあくまで事実審の口頭弁論終結日よりも前の事情に起因して発生した損害であるにすぎず,当然に後訴で主張できるわけではない(交通事故があった場合に,まずは物損で争い,それで負けたら,治療費で争い,それで負けたら休業損害で争い,それで負けたら,後遺症による逸失利益で争う・・・なんてことをされたらたまらない。なお,民事訴訟法338条1項5号や民事執行法35条2項も参照。)。まずは,こうした基本的な理解を正確に捉えておくことが重要であろう。

 

 ⑵ 設問2の問題点

 それで,設問1の処理を前提とすると,Y→Xの不法行為による損害賠償請求権は,結局,本訴により500万円を超える部分の不存在が,反訴により500万円以下の部分の不存在が,いずれも確定されたことになる。そうすると,上記前提知識⑴の内容を踏まえると,Yが本件事故に基づいて不法行為による損害賠償請求を求めようとしても,その請求は既判力によって遮断されてしまう。したがって,Yの請求は認められない,とするのがシンプルな考え方の筋道である。

 ところが,設問2では,そうではなく,「前訴判決を前提とした上で,後訴においてYの残部請求が認められるためにどのような根拠付けが可能かについて,判例の立場に言及しつつ,前訴におけるX及びYの各請求の内容に留意して,Y側の立場から論じなさい。」としており,要するに上記のシンプルな考え方の筋道を否定しなさい,ということを求めている,ということになる。つまり,「前訴における既判力が及び,後訴の主張は既判力によって遮断される」という主張を否定する立論をせよ,と言われているわけである。そして,そのヒントとして,問題文は,「判例の立場に言及しつつ,前訴におけるX及びYの各請求の内容に留意せよ」と教えてくれている。したがって,これに基づいて回答していけばよい,ということが分かるであろう。

 

 ⑶ 判例の立場

 そこで,まず判例の立場について触れよう。本件では,Yは,前訴において,本件事故によりYに頭痛の症状が生じているとして,損害賠償を求めていた。他方,後訴では,「前訴判決後,Yは,当初訴えていた頭痛だけでなく,手足に強いしびれが生じるようになり,介護が必要な状態となった。そこで,Yは,前訴判決後に生じた各症状は本件事故に基づくものであり,後遺症も発生したと主張して」Xに対して損害賠償を求めているわけである。このような前訴の口頭弁論終結後に新たに損害の発生が分かった場合の処理に関する判例の処理を理解していますか,ということが問われている。この論点に関する最高裁判決は,最判昭和42年7月18日であろう。この事案を簡単に紹介しよう。事案は,Xが,Yが保管していた硫酸を足にあび,やけどを負ったことから始まる。Xは,Yに対して,治療費20万円,逸失利益50万円,慰謝料30万円を請求したが,認容されたのは慰謝料30万円のみであった。その後,Xは,上記事故に起因して再度手術を実施し,それに30万円のひようが掛かったとして,再度,Yに対して損賠償請求訴訟を提起した,というものである。本最高裁判決で直接の争点になったのは,後訴が消滅時効にかかっているのではないかという点であったが,第1審と第2審では,後訴が前訴の既判力に抵触しているのではないかという点が争われていたところ,高裁は,前訴の既判力は請求があった特定の損害についてのみ及び,それ以外の損害についてまで既判力を及ぼすものではない,とした。最高裁もこの判断を前提にして消滅時効に関する判断をしているので,この判断は前提になっていると考えられるだろう。まぁ,要するに,不法行為による損害賠償請求では,特定の損害を主張した場合には,それが一部請求であると明示されたものとして扱い,残部には既判力が及ばない,としたというわけである。つまり,判例の立場は,前訴を明示的一部訴訟とし,後訴には既判力が及ばないという処理をしていると理解できる。

 

 ⑷ 本問の処理?

 この判例の立場を知っていれば,「やった,一部請求後の残部請求の問題だ。既判力の範囲が及ばないことと,後訴が信義則に反しないことを論証すればよい。本件では前訴は頭痛で,後訴は後遺症だから別の訴訟物となるから,前訴の既判力は及んでないし,後遺症は口頭弁論終結後の事情だから,前訴で主張する期待可能性に乏しく,信義則違反にもならない。よし,これで合格点だ。」…って思う人,多いと思う。たぶん,それでも合格レベルなのかもしれないが,それはまた本問の特殊性を見落としている。Yの反訴の既判力の問題だけを考えればよいのであれば,上記の回答でよいのだが,本問では,Xが債務不存在確認訴訟を本訴として提起しており,本訴の既判力も問題になっているのであり,この点を忘れてはならない。仮にYが請求したかったのが頭痛に基づく治療費等であったとしても,Xは,積極的に全部の不存在を求めているわけで,そうすると,Xによる債務不存在確認訴訟によって,Yの請求権は,その他の損害を含めて全てが審理の対象となっており,それらすべてが不存在であることが確定されている,と考えるのが素直であろう。そうすると,上記の最高裁を直ちに当てはめる回答は,正しくないということになる。つまり,最高裁によって本問は直接解決することができないのである。本問は,Xによる本訴がある以上,一部請求後の残部請求で処理することはできないのではないか,という悩みを見せなければならない。ここまでできて上位答案かな,と思う。

 

 ⑸ もう一歩前へ

 上記の悩みをどうするかについては,おそらく3つのアプローチがあるであろう。1つは,頑張って前訴の既判力の範囲を絞るアプローチ(Xとしても,治療費等の損害のみを対象にしていた),1つは,後遺症の発生は既判力の基準時後の事情であるとするアプローチ,もう一つは,既判力の遮断効が及ばないとするアプローチである。ただ,前者2つについては,論証が難しい気がする。本問では,むしろ,既判力の時的限界のアプローチによる方が,既判力に関する一貫した理解を示せると思われる。つまり,解答としては「判例はこの問題を一部請求後の残部請求と捉えるが,本問ではXによる本訴が存在する関係上,一部請求とみなすのは無理があり,その射程が及ばない。しかし~」という構成の方が,正しいと思われる。

 で,ここではYの立場から論じればよいのだから,少々無理な主張をしてもかまわないじゃないかということで,既判力の時的限界の趣旨から考えてみると,既判力の遮断効があるのは,事実審の口頭弁論終結時までに発生していた事実については,当事者に主張の機会があったという意味で,手続保障があるからである。そうすると,基準時前の事実であっても,当事者にとっておよそ主張できる期待可能性がない場合には,遮断効を及ぼさないという考え方はあり得るであろう。したがって,Yとしては,後訴の根拠となる損害が,前訴の口頭弁論終結後に生じたものであり主張する期待可能性がなく,かつ,その程度も前訴における頭痛とは大きく性質の異なる深刻な損害であるから主張を許す許容性があるとして,既判力の遮断効が及ばない,という主張をすることが考えられる,というのが一つの解答ではないかな,と思う。

 

4 おわりに

 これを1時間ちょっとで解答しろっていうのは,めちゃくちゃ厳しい。でも,判例の内容を把握するだけでなく,その根拠まで把握できていることを前提に,判例の内容との違いをどう処理するかを悩ませる問題で,法的思考力を問う良問だ。予備試験は難しいことを痛感し,新司法試験でよかったと謎に安堵しましたとさ。

 

当事者の確定ー氏名冒用訴訟ー

今回は,ちょっとした夏休みの自由研究ということで、氏名冒用訴訟についてみていこう。

通常,民事訴訟では,当事者が誰になるかが問題になることはほとんどないため,氏名冒用訴訟は限界事例であるが,考え方を理解しておくことは重要である。

 

氏名冒用訴訟を理解する際のコツは,できるだけ具体的な事例に基づいて考えることである。単に「氏名冒用訴訟」というのではなく,実際にどのような訴訟になり,どのような紛争が生じ,その紛争がどう解決されるべきかまで含めてきちんと理解しておくと,知識が定着し,また,応用も効く。

 

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【事例】

Xは,Pと共謀して,Yが所有している土地甲の所有権を手に入れたいと考えた。そこで,Xは,Yを被告として甲土地の所有権移転登記手続請求訴訟を提起した。Xは,Yの関与を排除するため,訴状記載のYの住所をPのものとした。そのため,訴状はPに送達され,裁判所は,第1回口頭弁論期日をした。Pは第1回口頭弁論期日において出席し,Xの請求原因を全て認めた。そのため,裁判所は,Xを勝訴させる判決を出し,その判決はPに送達され,判決は確定した。

Yは,ある日,土地甲の所有者名義がXとなっていることに気づいた。そこで,Yは,Xに対して所有権の移転登記の抹消を求める訴訟を提起した。Xは,訴訟において,Yの請求は前訴の既判力に抵触するとして,直ちに棄却を求めた。裁判所は,どう判断すべきか。

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氏名冒用訴訟をどう処理するかは,いわゆる民事訴訟における当事者をどう確定するかという問題に関連している。周知のとおり,当事者の確定の基準には,意思説,行動説,表示説のほか,規範分類説などがある(その他にも適格説,併用説,紛争主体特定責任説などがあるらしい。)

 

これらのうち,意思説(訴訟当事者が誰を当事者としようとしたかによって判断する)や行動説(当事者らしく行動した者を訴訟当事者とする)はあまり支持がない。

通説は、表示説(訴状の表示において特定された者が当事者とする。ただし、訴状の記載に誤記がある場合もあるので、請求原因等も含めて訴状の被告の表示を実質的に検討する必要はある。)であり,どの立場に立つにせよ,まずは表示説の立場からきちんと事例を処理することができることが必須であろう。

 

実際問題,表示説は,基準として極めて明確かつ客観的であり,優れている。裁判所としても,訴状を受け取った際に「この訴状の記載に関わらず真実の当事者を認定しなければならない」などといちいち認定しないといけないとなると,やってられないであろう。

 

表示説の立場からすると,【事例】はひとまずシンプルに解決することができる。

すなわち,訴訟当事者は,Xが原告,Yが被告である。訴状にそのように表示されているからである。そして,結果的にYは敗訴しているのであるから,XのYに対する判決は,一応は有効に成立しており,甲土地の登記がXに移転されたことは,一応は有効である。したがって,YがXに対して所有権移転登記の抹消を求めたとしても,その訴訟は既判力に抵触するから,棄却すべきことになる(既判力については勉強されたい。)。

もちろん,この結論は,Yにとってあり得ないであろう。自分が全くあずかり知らないところ敗訴し,それに対して文句が言えないというのはおかしい。しかし,そのための方法は,別訴ではなく,確定した判決に誤りがあった場合の救済制度,すなわち再審によるべきである。再審をするためには再審事由が必要であるが,Yは,自らが当事者となる訴訟について,有効な授権がないPによって訴訟追行されているのであるから,Pに対して訴訟追行をするのに必要な授権がないという再審事由がある(民訴法338条1項3号)。

このように,訴訟当事者,判決当事者はいずれもXとYとした上で,再審によって救済を図る,という処理をすることになるわけである。

 

まずはここまでをきちんと理解しておくことが重要である。

 

なお,訴訟係属中に氏名冒用訴訟であることが疑われた場合はどうするか,という問題があるが,これまたシンプルで,当事者はXとYであることには変わりがなく、Pに訴訟追行をするために必要な授権があったかが疑われること尽きるのであるから,その観点から職権調査をすることになる。もしPに必要な授権がないことが判明したら,これまでのYに対する訴訟行為は全て効力を持たないのであるから,訴状の送達からやり直すことになる。

 

このように,表示説は,シンプルに事件処理をすることができる点で優れている。

 

なお,死者名義訴訟も同様で,訴状の表示から判断するから,死者に対する訴訟が確定したとしても,判決の名宛人たる当事者が存在しないから,判決はそもそも無効である(応用編として,東京高判昭和45年1月20日をどう考えるか,という問題はある。)

 

【蛇足】

この記事を書こうと思ったきっかけは,法学教室2020年5月号の林教授の民事訴訟法の記事を読んでのことだったわけだが,その記事では,規範分類説による検討がされている。有力説ということだろう。(はじめその点に気づかず,混乱してしまった。)。

 

規範分類説は,プロスペクティブな観点とレトロスペクティブな観点を分けて検討する立場である。すなわち,今後手続を進めるにあたって誰を当事者とするべきかという場面では表示説を採用し,既に終了した手続において誰が当事者であったかを検討する場面では,紛争解決に適するもので,かつ,手続の結果を適用されても仕方がない程度に手続に関与する機会を与えられていた者を当事者とする説である。

 

先ほどの表示説の処理だと,Yとしては,何の落ち度もないのに敗訴判決が一応は有効に成立していることになるが,この結論が気持ち悪いという感覚は理解できる。規範分類説は,事後的に,その判決の効力をYに及ぼすことができるかという観点から,当事者を特定していく考え方であって,上記の【事例】だと,Pが始終Yとして行動しているのだから,判決の効力を及ぼすべきはPなのであって,訴訟当事者は,レトロスペクティブな観点からは,XとPであると考える。そうすると,【事例】では,Yは,Xに対して抹消登記手続きを求めることができることになり,感覚的にも妥当な処理であるように思われる(表示説の処理は,やや形式的な印象を受ける)。

 

そうした観点から,規範分類説に魅力を感じなくもないが,プロスペクティブな観点とレトロスペクティブな観点を分けて当事者概念を検討するというのは,当事者概念が一貫しない印象をうける。学問的には興味深いが,当事者を実質的に検討していくと、手続きや判決の効力の範囲が曖昧になるおそれを生じさせることになる。例えば、判決が確定しても、「その判決には私には効力がない」という主張を、再審等の手続によることなく許容することになるが、執行手続等も含めた事件処理の観点からは,より客観的で明確な,表示説の方を支持したい。

従業員が不法行為の被害者に対して損害賠償を支払った場合,従業員は,会社に対して一部補償を求めることができるか

最高裁令和2年2月28日第二小法廷判決

 

【事案】
X 貨物運送業の会社
Y Xの社員(トラック運転手)

Yが,配送業務作業中,不注意によりAをはねてしまい,死亡させてしまった。
Aの相続人であるBは,Xに対して使用者責任に基づく損害賠償請求訴訟を提起し,Xは,Bに対して約1300万円を支払った。
他方,Aの相続人であるCは,(なぜか)Yに対して損害賠償請求訴訟を提起し,Yは,Bに対して約1500万円を支払った。
Yは,Xに対して,Bに支払った額の一部を肩代わりするように求めて,訴訟を提起した。

 

【参考条文】
民法715条1項 使用者責任を認める規定

 

【高裁の判断】
民法715条1項の規定は,被用者の無資力等の危険を被害者に負わせないため,使用者にも損害賠償責任を負わせただけで,被用者からの求償を認める根拠にはならない。
→Yの請求を棄却(トラック運転手であるYは,会社に対して一定の補償を求めることはできない。)

 

【最高裁の判断】
使用者責任の趣旨は,報償責任,危険責任を考慮し,損害の公平な分担という見地から,使用者の責任を認めたものである。このような趣旨からすれば,使用者は,被用者との関係においても,損害の全部又は一部について負担すべき場合がある。
判例によれば,使用者から被用者に対する求償は,信義則上相当と認められる限度に限られる。被害者が使用者か被用者かどちらに損害賠償をしたかによって,損害の分担が異なるのは相当でない。
したがって,被用者が使用者の事業の執行について第三者に損害を加え,その損害を賠償した場合には,使用者は,諸般の事情に照らし,損害の公平な分担という見地から相当と認められる額について,使用者に対して求償することができると解すべきである。
→会社Xは,Yに対して,いくらかは補償すべきである。

 

【感想とか】
本件を見た際,雑感として,「保険で対処できなかったの?」と思った。どうやら,Xは上場会社で,そもそもスケールメリットがあり,自動車保険代金を支払うよりは,個別の事故が生じた場合にプールしていた自動車保険代金相当額を支払いに充てる方が経済合理性があったとのことである(自家保険政策と判示では述べられていた)。
そうした会社の方針のはざまで生じた事件のようであるが,使用者責任の法理との関係では,被用者から使用者に対する求償権を認めたという非常に大きなインパクトのある判例となった。
補足意見では,「差戻審においては,基本的には求償をほぼ全額認めるべきだよ」というオーラがメラメラ出ていた。最近の補足意見って,差戻審に対するメッセージを言うことが多いのかな?この間の住民訴訟の最高裁(競艇の臨時従事員に対する退職手当に実質的に充てる趣旨での補助金の支出が違法であると判断された事例)でも,似たような雰囲気の補足意見が出されていた。
実際問題として,大手の運送会社にとって,交通事故が生じることは,ある程度織り込み済みなのだから,その危険が生じた場合には,その賠償責任は会社が基本的には負うべきよな。こうした素朴な感覚を述べるなら,誰でもできるんだが,三浦判事の補足意見では,そうした感覚をきちんと法律的な観点から正当化されていて,さすがだなぁと思う。

最近,自分の思考力のなさに絶望を感じる。日々精進。

「伝え方が9割」から学んだこと

だらだら本を読んでも自分のものにはならない,ということで,本を読んで学んだことをメモに残すシリーズ。今回は,伝え方が9割という本。

冒頭の例を読んで,この本に興味が沸いた。すなわち,こちらに興味がない人をデートに誘いたいときに,「デートしてください」と言っても,まず撃沈するが,「驚くほど旨いパスタの店があるのだけど,行かない?」といえば,確率がぐんと上がる,というものだ。結局やることは変わらないのに,誘い方だけで成功率は全然違いそうだ。このように,実は,自分は,ものの言い回しでいろいろと損をしているのではないかと思い,伝え方について考えないとなぁと思った。実際,「人にものを伝える」というのは,とても人生にインパクトがあるものなのに,それについてきちんと学ぶ機会というのはなかった。作者は,その伝え方の技術を教えてくれるというのである。そういう意味で,興味の沸く本である。

まずお願いごとをする際の技術。最悪なのは,自分の要望をそのまま言葉にすることだ。上記の「デートして下さい」がまさにそれに当てはまる。デールカーネギーの「人を動かす」にもあったとおり,人は,自分のやりたいことをやりたいのだ。だから,相手がどういう思考をするだろうかをきちんと想像することが大事である。その上で,相手のニーズに合った提案をする。上記の例では,イタリアンに誘っているが,これが一つの例である。つまり,「何かを求めたいときには,どう提案すれば相手はYESと言ってくれるかを考える」,ということである。カーネギーの本でも,「イエスと答えられる問題を選ぶ」という原則が紹介されていたが,まさに同じことであろう。

そうはいっても,相手の思考方法を想像して,それにあったものを提案するのは,そう簡単ではない。なので,その際の視点を持っておくとよい。この辺りは,いろいろな本でいわれていることの応用で,やはり,相手の承認欲求を満たしたり,相手に重要感を持たせたり,相手が主体的に選択していると思わせることが重要だ。例えば,上記のデートの例のように,相手が好きそうなものについて触れた上で提案をすれば,相手は自分にもメリットがあると思うようになる。あるいは,提案を受け入れなければデメリットを受けるようになることを明示するなどなど。

こういうことを言うと,伝え方っていうのは,テクニックなんだなぁと思ってしまうかもしれない。確かに,伝え方には技術もあるが,結局は,お願い事をするときには,相手のことを思いやることが大事で,相手のことを思いやれば,自然といくつかのテクニックを実践する結果となると思う。

結局,「相手を感動させるにはどうすればよいか」ということを常に考えながら,自分の言葉を紡いでいくことが大事なのだろう。その時に,少しのスパイスとして,言い回しの工夫を知っておくとさらに効果的,ということだ。

 

 

 

成年後見人が気に入らない!変更ってできないの?

【設例】

 東京に住んでいた私の母に対して、私の知らない間に、成年後見が開始されていました。母の成年後見人として、東京の弁護士が選任されたそうです。ところが、母は、突然、私が住んでいる広島県の施設に入所したいと言い出しました。そのため、現在、母は,広島県内の施設に入所しています。私は、週に1回程度施設を訪れ、母の面倒を見ています。

 ところが、東京の弁護士とはあまり連絡が取れません。連絡が取れたとしても、母の介助のために必要な物品の購入について、「それは支出できない」の一点張りです。別に母の財産が欲しいわけではないのですが、成年後見人は自分の報酬のことしか考えていないのではないかと不信感を抱いています。成年後見人を解任させたり、又は、私自身が成年後見人に新たになったりすることはできないのでしょうか。

 

 

よくありそうな事例だが,結論から言うと後見人を辞任させたり,変更したりすることは、そう簡単には認められない。成年後見人は、成年被後見人(以下「本人」と言う。)の財産を守るため、公的な立場から選任されるもので、一度選任された以上は、何か特別な理由がない限り、勝手に後見人を辞任したり、他の人に変わってもらったりすることはできないのである。

法律上は、次のようになっている。

  • 後見人が辞任するためには、正当な事由が必要(民法845条)。
    → 例えば、高齢や病気のため、職務を行えないなど。
  • 後見人を解任させるためには、家庭裁判所に対して、「不正な行為、著しい不行跡その他後見の任務に適しない事由」あったと証明することが必要(民法846条)。

 なお、成年後見制度は、判断能力の欠如を理由に、成年後見人を選任して本人の財産を適切に管理することを目的とする制度なので、成年後見人の選任後、例えば、本人をきちんと介護できる人がいることが判明したとしても、成年後見開始の決定が取り消されることにはならない。もちろん、そうではなく、本人の判断能力が非常に改善した、といった事情がある場合には、後見開始の審判の取消の申立てをする余地がある(民法10条)。

そしたらせめて自分も成年後見人に選んでくれ,という要望があるかもしれない。前提として,成年後見人として誰を選任するかは、家庭裁判所の裁量に委ねられており、家庭裁判所が適切であると判断すれば、親族であっても成年後見人になることはできる(実際に、数多くの事例においてご親族が成年後見人として選任されている)。

そして、既に成年後見人が選任されている場合であっても、家庭裁判所が必要であると認めた場合には、追加で成年後見人を選任することは可能である(民法843条3項)。

しかし,実際に複数選任されるかは,そう簡単ではない。複数選任するかのポイントは、制度の趣旨からすると,本人の財産の管理を適切にするために複数の成年後見人を選任することが必要かつ相当かというものになると思われる。例えば、成年後見人と本人とが遠隔地に居住しているため、後見事務が適切に処理することができない場合などは、本人の近くに暮らす方を別途後見人に選任する余地はなくはない。もっとも,その場合でも,成年後見人が弁護士で、本人が入所している施設と十分に連携をとっている場合には、複数選任する必要性や相当性を見出すのは厳しいと思われる。

そもそも,親族が成年後見人に対して不信感を持っており,複数選任されたとしても成年後見人同士で対立が起こるようなことが予想されるような場合には,まさに本末転倒なので,複数選任することは相当でないということになろう。複数選任は、それぞれの成年後見人が公平な立場で、信頼関係に基づき、適切に事務処理ができる場合に限って、検討されることになると思われる。

親族の方がよく思うのは,成年後見人は自分の報酬のためにお金をケチっているんじゃないか,ということだが,普通はそうではない。もちろん,成年後見人に対しては、一定の報酬が支払われるが、もちろん、自分で勝手に報酬額を決められるわけではなく、家庭裁判所が相当な報酬を決定する(民法862条)。

そして,以下の通り、報酬には一定程度の「相場」がある(大阪家庭裁判所「成年後見人等の報酬額の目安」参照。)。すなわち,

 ・管理財産1000万円以下 月額2万円
 ・管理財産1000万円超~5000万円以下 月額3~4万
 ・管理財産5000万円超 月額5~6万円

このように、管理財産額が増大したとしても、月額報酬が大幅に増えるという関係にある、とまでは言えない。そのため,財産をケチっても,後見人にとってそうメリットがあるわけではないのである。疑いたくなる気持ちは分かるが,成年後見人は公的な立場から選ばれたもので,決して自己の利益のためだけに動いているわけではない。

もっとも,本人の食費、被服費、医療費等、本人の生活に必要な費用については、本人の財産から支出すべきものであり,本人の意思を確認・尊重し、本人の生活に必要なのであれば、支出行為は適切に行うのが成年後見人の責務かと思われる(民法858条参照)。そのため,支出の必要性等をきちんと成年後見人に説明することは,意味があることだと思われる。

また、本人に対して、相当な額の小遣いを与えるといった例もある(飲み物一つ買うにも成年後見人が買わないといけないわけでは当然ない。なお、本人がした日用品の購入その他日常生活に関する法律行為は、成年後見人であっても、取り消すことはできない(民法9条)。)。この辺りの日常用の介助のための相当な額の小遣いを求めたりすることは考えられる選択肢ではないかと思われる。

ただ,そうは言っても,例えば,現在の成年後見人と交渉して,現在の成年後見人の辞任願いと新たな成年後見人の選任願いの上申書を裁判所に提出することができれば,ひょっとしたら裁判所はウルトラC(死語)で考慮してくれるかもしれない(裁判所も,上記の建前があるとは言え,実際に機能しないと困るので,より機能する選択肢があれば,認めてくれる余地があるのではないか,と思う。)。いずれにせよ,現在の成年後見人が気に入らないからと言って,喧嘩することは一つもよいことがないので,紳士的に交渉を進めることが重要であろう。

お金2.0の感想

今、経済がかわろうとしている。これまでの資本中心の資本主義から,資本より広い概念である価値を軸とする価値社会へとシフトしていく。

社会は、その時々の技術レベルを前提として、人間の経済的事情・社会的観点によって変化する。これまで、「貨幣」が経済的観点からはもっとも重要視され、いかにお金を稼ぐかが重要視されてきた。しかし、今、社会の経済的事情は、大きな変化に直面している。例えば、フィンテックなどがその例である。これまでの常識では考えられなかったようなシステムがどんどん作られており、例えば、ビットコインがその例である。今では常識となっている中央銀行が発行する紙幣という制度も、せいぜいここ100年ちょっとの間にようやく世界的に普及してきたものであるので、こうしたブロックチェーンを利用した制度というのが、今後覇権を握ったとしてもなんらおかしなことではない(現に、昨今の通信技術の進化はめざましい)。それぞれのシステムは、社会の流れに応じた「寿命」があるはずであり、「寿命」が来たら、次のシステムに移行するのが合理的である。

では、次のシステムとしてはどういったものが考えられるか。そのためには、持続的に成長するシステムのあり方を知っておくことが有益である。いくつかの要素があるが、報酬が明確であること、時間によって変化すること、成果が得られるかにつき不確実性があること、階層が可視化できること、参加者による交流の機会があること、である(Facebookを例に考えれば、それぞれの要素を具体的に理解できると思われる。あとは、パチンコとかゴルフを例にとっても説明できるだろう。)。こうした要素は、脳の機能とも整合的に理解することができる。もっとも、持続的に成長するシステムと言っても、いずれ寿命がきて、新しいシステムにとって変わられる。世界とは、こうした発展と衰退の繰り返しである。

さて、社会は、その時々の技術レベルを前提として変化すると述べたが、今現在の技術の変化はどう捉えられるのだろうか。キーワードは、「分散化」と「自動化」である。「自動化」はイメージがしやすい。AIである。他方、「分散化」について、これまでは、専門職、エージェントといった、特定の情報に詳しい人が権威を得てきたが、情報や技術に対するアクセスが容易になったことから、これからはますます個人が活躍する時代になることが予想される。例えば、YouTubeを例に取ると、放送会社を介することなく、個人による発信がどんどん増え、放送会社等を介在しない有名人などもどんどん生まれている。他にも、インスタグラム、Airbnb、UBERなど、エージェントを挟まない個々人のネットワークに着目した企業が、今急成長を遂げている。また、そもそも「お金」という概念を使用しない独立した経済圏も作られ始めている。LINEコインを例にして考えてみよう。今は、LINEコインは「お金」に紐づいているイメージがあるが、例えば、LINEのクリエイターにはLINEコインを報酬としてわたし、それを用いてLINE内の様々なサービスを利用するというフレームワークにすれば、LINE内で一つの経済圏が生まれることになる。

この「分散化」と「自動化」が揃うと、膨大なデータを利用して、独立下一つの経済圏を作ることが、今後可能になることが予想され、「経済圏」は「創造」の対象になる可能性が出てくる。経済圏は国家が形成するのではなく、経済圏が民主化する可能性がある生まれてくる(その結果、経済圏同士での競争ももちろん生ずることになる。)。

ところで、今の資本主義社会には、限界が見られると言われて久しい。本来は、株式市場は、その会社の事業に対して投資するというものだったはずだが、今や、会社の事業というよりは、投資してお金を増やすための場になっており、リーマンショックに代表されるように、実体経済と金融経済の乖離が生じている。実体経済の成長率を超えて、金融経済が成長し、足場が脆弱な舞台のように不安定な状態になってしまっている。こうした状況を踏まえると「お金」が持つ「交換価値」は絶対的なものではなく、「お金」でない何かに交換価値を持たせるという方法もありうるはずある。そして、そうすると、もはや重要なのは、「お金」ではなくお金をも含む様々な「価値」であるというパラダイムシフトが起こる。そうなると、例えば、企業価値を図るにあたって、財務諸表は必ずしも絶対的な指標にならず、「人材」や「データ」なども指標に含まれる可能性が生まれる。

これが、資本主義から価値主義への転換ということである。資本主義は、あくまで「価値」のうち、「お金」に転換しやすい有用性があるかという価値に着目していたが、今後は、個人や社会に対して訴えかける価値も重要になってくる(例えば、インフルエンサーという存在は、「お金」を持っていなくとも、すぐに「お金」に転換しうる大きな価値を持っている。)。こうした転換の結果、これまでのように「お金」を中心に据えなくても良くなり、結果、複数の経済圏が生まれ、そのどこの経済圏で生きるかを選択できるようになるかもしれない。

さて、価値主義という考え方を前提として、実は、今、多くの人が求めている価値がある。それは、「人生の意義」を持つことである。戦後と異なり、衣食住にそこまで苦労しなくなった今、日々の目標を持つことが難しくなってきている。つまり、物質的充足から、精神的充足に価値を置く流れが生じている。そうなると、これからは、他人に対して精神的充足を与えられるような人間がますます価値を持つことになる。精神的充足を与えるには、「他人を熱中させるだけの熱量を自分がもつ」、月並みな言葉で言い換えと、「自分の好きなことを楽しんで実行する姿を他人に見せる」ことがますます重要になってくると思われる。よく言われることだが、自分がとことん熱中できることを探して、それに打ち込むことによって、結果的に成功できると言えよう。こうして、今後は、自分の「価値」を上げるために何かを尽くしていくことが、ますます重要になってくると思われる。